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文 清水麻衣子
写真 中川 司
2021.02.24
宮城県女川町出身の中村雅俊さんはあの日、東京でドラマの撮影中に強烈な揺れに襲われた。その震源地を知ったとき、とっさに「津波が来る」と思ったそう。後日、変わり果てた故郷の風景を目の当たりにし、始めたことは、ギターを持って避難所をめぐり、“歌で元気づける”ことだった。東日本大震災から10年、中村さんが感じる復興について、音楽について、話を聞いた。
中村雅俊さんのことを「俳優」だという人と「歌手」だという人、どちらもいる気がします。もちろん「どちらも」なのですが、もともとの出発点はどちらだったのでしょう。
大学4年間、テレビもない質素なアパートに住んでいて、あるのはギターとラジカセだけ。それこそ日記みたいに曲を作って、新曲ができるたび、仲間に聴かせていました。ESS(英語サークル)に所属していたんだけど、ある日、関東のESSの仲間で成るモデルプロダクションがミュージカルをやるっていうことで、当時ディレクターだった奈良橋陽子さんに勧められて、オリジナルの曲でオーディションを受けたんですよ。そしたら、見事落選!(笑)。
でも、その舞台が終わったら、制作のジョニー野村さん(のちにゴダイゴをプロデュース)からデモテープを録ってレコード会社に売り込みに行こうと言われたのですが、すべてのレコード会社がダメで。それが俺にとって人生の転機だったかな。奈良橋陽子さんとジョニー野村さんが、夫婦で俺のことをすごく買ってくれててね。奈良橋さんからは「You have something」と言われ、俳優への道を後押ししてくれました。
音楽がきっかけにありつつも俳優としてスタートを切ったということなんですね。デビューがいきなりの主役でしたが、それから音楽もやろうということに?
主役に決まった「われら青春!」の先生役は、青春学園シリーズの5代目だったんですけど、歴代の先生はみんなレコードを出すことが決まっていたんですよ。歌を出したらまさかのオリコン10週連続1位になっちゃって。だから1974年って、俺の人生が劇的に変わったすごい年なんです。好きで音楽はやっていたけど、ミュージシャンになれるほどの才能もないし、なりたいなんて思ったこともなかった。でも「ふれあい」が売れて、歌手デビューもできた。夢のような話だったよね。
ずっと音楽を続けてこられて、最近では被災地を歌で元気づける支援をされていますよね。音楽に対する気持ちの変化はありましたか?
俺はたまたま歌も歌ってきたので、ギターを持って避難所など人の集まるところを回ってきました。ある時、大学2年生の頃に作った「私の町」と言う曲を地元の女川町で歌ったら、みんな泣いてるんですよ。その歌詞が「トンネルを抜けると港が見えるのさ 短いホームに汽車は停まるだろう」とか「ホームに降りると潮の香りがほら」「朝日が昇ると海が輝くのさ」みたいな女川町の情景描写をした歌だったの。女川町に当たり前にあった風景はもうないから、その歌を聴くと思い出すんだろうね。「えっ、俺の歌で?」とびっくりして、初めて「俺の作った歌すげー!」って思いました(笑)。
写真 ノースプロダクション
それが自分の曲をすごいと思った「初めて」とは意外ですが、震災から10年が経ちます。この10年、支援を続けてこられて、感じたことはありますか?
この10年で、被災された方々の笑顔がどんどん増えてきたなと感じますね。建物や道路といった目に見える復興はわかりやすいんですが、心の復興というものはあまりわからないんですよ。いずれ町もどんどん昔に近い形になるんだろうけど、心の傷跡っていうのは、折に触れて故人を思い出したり、悲惨な風景みたいなものが蘇ってきたりするのもなので、精神的な癒やしに歌の力も必要かなって。逆にこれからが俺の出番かもしれないという、使命感みたいなものを感じています。
震災後の女川町の風景は、今も鮮明に覚えていますか。
震災から1か月後ぐらいに行ったのですが、東京から向かうと、もうすぐ女川町に到着するところで町全体を見下ろす形になるんです。その時に瓦礫だらけの町を見て、本当にびっくりしました。俺が昔住んでいた家のあたりも当然何もなくて、町がすごく狭く感じたのを覚えています。俺は小学4年生の時に「チリ地震津波」を経験して、みんなで山の上に走って逃げて、津波が来るのを見ていた記憶があります。だけど今回の東日本大震災はその比ではなく、想像を絶するものでした。
写真 ノースプロダクション
今は人を集めるのがなかなか難しいところですが、今後も音楽を通じた支援は続けられる予定ですか。
やっぱり歌の力ってすごいと思うので、今後もそういう機会を作れたらと思います。手前味噌ですが、俺の曲には元気を与えるような歌が多いんですよ。例えば「辛子色の季節」と言う曲があるのですが、「いつか俺たちにも青春を昔話にする日が来る」と言う歌詞から始まって、歌詞全体が語りかけているようで、すごく心に沁みてくるんです。今は避難所のような場所はないので、コンサートホールで歌うという形になりますが、コロナが落ち着いたら再開したいですね。
大学時代に100曲くらい曲を作っていたという中村さん。想い出話をするうちに、3年生のときに作ったという貴重なデモテープを「聴いてみる?」と、ゴソゴソとスマホを取り出し披露してくれました。「なかなかいい曲でしょ」と言いながらも、自虐的なジョークで笑わせるお茶目な人柄と、優しい瞳の奥で故郷を想い、使命感に燃える熱さ。被災地の方々にとって中村さんは、心にそっと寄り添ってくれる、頼もしい存在でしょう。女川町を歌った「私の町」は、永遠に歌い継いでいってほしいですね。
セイコーは、2011年の東日本大震災以来、東北3県と東京で「“わ”で奏でる東日本応援コンサート」を定期的に開催しています。
コンサート名称の“わ”には、支援活動の「輪」、被災者と支援者で手を取り合う「輪」、将来への希望や思いをつなぐ「輪」、皆で一丸となって復興に取り組む調和の「和」、元気な日本の「和」など、“わ”の絆を広げていきたいという強い思いが込められています。
2021年3月11日の震災から10年の節目には「“わ”で奏でる東日本応援コンサート2021 in 日本武道館 〜あの日から、10年 音楽で届ける未来への”わ”〜」を開催(無料ライブ配信)します。
昨今の情勢を受け無観客での開催となりましたが、復興と希望の力となることを願いリモートで皆さんの想いを寄せていただく企画が予定されています。
あの日から、10年。あなたは何を想いますか。
俳優・歌手
中村雅俊
1973年、慶應義塾大学在学中、文学座附属演劇研究所に入所。1974年、NTV「われら青春!」の主役に抜擢されデビュー。挿入歌「ふれあい」で歌手デビューし、売り上げが100万枚を超える。 今までに連続ドラマ34本を含め、主演作品は100本以上。歌手としてもコンスタントに曲を発表し、現在シングル55枚、アルバム41枚をリリース。デビューから毎年行う全国コンサートも1500回を超える。
https://www.north-pro.com/talents/nakamura_masatoshi/
※別ウィンドウで中村雅俊さんのサイトへリンクします。