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震災から9年。音楽の力で繋いだ復興支援の“わ” ~“わ”で奏でる東日本応援コンサート2020~

文 清水麻衣子
写真 中川 司

震災から9年。音楽の力で繋いだ復興支援の“わ” ~“わ”で奏でる東日本応援コンサート2020~

2020.11.09

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2011年3月11日──忘れもしないあの日。東日本を襲った大震災は、人々の生活のみならず、心までをも変えてしまいました。大津波により壊滅的な被害を受けた東北地方の気の遠くなるような復興作業は、9年経った今もなお続き、決して終わったわけではありません。そのことをちゃんと思い出させてくれる活動があります。

セイコーは震災直後から物的支援のみならず、被災者の心に寄り添い、音楽の力を通じてサポートしてきました。それが「“わ”で奏でる東日本応援コンサート」(以降、“わ”のコンサート)。いくつかの音が鳴らない被災ピアノの演奏からスタートし、2013年からは被災地と支援者が心をひとつにして、東北3県のみならず、東京でもコンサートを始めました。その活動も来年で満10年。2021年3月11日には、日本武道館でのコンサートを予定しています。

10年という節目を前に、全世界に新型コロナウイルスが蔓延しています。苦難を乗り越えるために人々はどうしたらいいのでしょう……。得体の知れない不安感を払拭すべく、服部CEOの宮城県南三陸町への表敬訪問と、10月5日に行われたBunkamuraオーチャードホールでの「“わ”で奏でる東日本応援コンサート2020 in 東京」に、私も同行させてもらうことにしました。そこで感じたのは「音楽には力がある!」ということでした。そのときの様子をご紹介します。

(上)ホテル観洋からの海 写真(下)2015年に開催した“わ”のコンサートの会場見学の様子 写真

(上)ホテル観洋からの海(下)2015年に開催した“わ”のコンサートの会場になったホールを見学し、当時に思いを馳せる服部CEO。

写真 矢動丸

南三陸の海は宝物!

南三陸町は、2015年9月5日に“わ”のコンサートが開催された町。当時のステージには地元の子どもたちがあがり、沖縄から支援に来ていた自衛隊員に教わった三線を奏でたそうです。その会場となった「南三陸 ホテル観洋」を訪ねると、ロビーの大きな窓から、キラキラとまばゆいばかりの海が見えました。この海が多くの人々の命を奪ったのかと思うと、どれだけ怖かったか、胸が締め付けられる思いです。当時について尋ねるのも勇気がいることでしたが、女将の阿部憲子さんは笑顔でこう言います。

「もちろん、怖くて海のそばに近寄れないという人もいるのですが、大半の人は、“でも海が好き”って言っているんですよ。私たちは海の恩恵をたくさん受けてきましたからね。」

女将・阿部憲子さん 写真

写真 矢動丸

硬い岩盤の上に建つ「南三陸 ホテル観洋」は、2階まで津波が達したものの、そこから上のフロアは無事で、被災者の避難所になっていたそうです。助け合いをする中で、住民の皆とは親戚のような関係性が築かれていたといいますから、2015年に開催された“わ”のコンサートでの再会はさぞかし感無量だったことでしょう。

「皆さまの表情が明るく、キラキラしていたのが印象的でした。まだ仮設住宅にお住まいの方が多く、この町を離れた人もいらっしゃったのですが、久しぶりに親戚に会えたような喜びがございました。悩みを抱えていると、気持ちが沈み、いろんなことが面倒で出不精になってしまっているんですが、友達に誘われて参加してみたら気分転換になって、来てよかったわ〜と、言ってくださって。皆で準備から参加していただき、歌の練習をして、広い舞台で披露するというのが嬉しかったようでございました。」(女将・阿部憲子)

私たちは生かされている

ホテル観洋が震災を風化させないために主催している「語り部バス」に乗って、被災地を巡ってみることにしました。

あたり一面に10メートルの盛り土をし、8.7メートルもの防潮堤を建設している戸倉地区。あったはずの町がなくなり、あちこち工事をしている風景からは、復興がまだまだ終わっていないという現実をいやでも思い知らされます。高台にあり、当時避難所になっていた戸倉中学校にも22.6メートルの津波が押し寄せ、時計は津波の2分後、14時48分を指して止まったまま。

志津川湾の南奥に位置する戸倉小学校は、震災の10日前に完成した体育館も、3階建ての校舎もすべて津波に飲み込まれてしまい、現在は解体され、跡形もありません。しかし、校長先生の判断で高台に避難し、寒くて怖い真っ暗な夜を、皆で歌を歌って励まし合いながら乗り越えたと聞いて、歌は皆に力を与えてくれるのだと確信しました。

怖かった一夜を乗り越えた翌朝の朝日はすごく美しく、「生かされていると感じた」と、語り部バス・ガイドの伊藤俊さんは言います。

伊藤俊さん 写真

写真 矢動丸

「地震や津波で経験したこと、そして、繰り返してはいけないことを私たちは伝えていこうと思うんですけども、同時に人のつながりとか、命の大切さや温かさ、そしていろんな人がつながることで、いろんなことが実現してきたんだということも伝えていきたい。最初はやっぱり下を向いていたんです。月日の積み重ねの中で、たくさんの力をいただきましたので……逆にそれがなかったらここまでやってこれませんでした。ホテル観洋が避難所だったときも、言葉だけでは前を向けなかった。だけど、“わ”のコンサートで一緒に歌を歌ったら、私たちはずいぶん変われたんです。私たちは震災のことだけを考えて生きる人生じゃないので、楽しく、幸せに生きるために、歌というつながりを大事にしていけたらと思います。」(伊藤俊)

津波が襲った総合結婚式場 写真

15〜16メートルの津波が襲った総合結婚式場「高野会館」。むき出しになった鉄骨はいろいろな方向に折れ曲がり、水圧の強さを実感しました。当時3階では高齢者の芸能発表大会が行われており、約327人が現場の判断で、高台ではなく屋上に避難したことで、助かったそうです。

南三陸町震災復興祈念公園 写真

(上)骨組みだけが残る防災対策庁舎。津波が押し寄せる直前まで、町民に避難を呼びかけた町職員がいました。(下)献花台に静かに花を手向け、犠牲者に祈りを捧げる服部CEO。

写真 矢動丸

こんなときこそ、歌おう!

“わ”で奏でる東日本応援コンサート 2020 in 東京 写真

写真 矢動丸

本来だったら3月11日に開催予定だった「“わ”で奏でる東日本応援コンサート 2020 in 東京」。新型コロナ感染拡大防止のため、10月5日に延期し、無観客という形で開催されました。出演者は、東北でのコンサートにも参加されている辛島美登里さん、サーカスの皆さん、渡辺真知子さん。そして、「釜石鵜住居復興スタジアム」ラグビー場オープニングセレモニーを飾った平原綾香さん、茨城での被災体験から復興支援に取り組む上野耕平さん、数々の復興支援コンサートに出演されている杉田二郎さん。司会進行は、元NHKアナウンサーの宮本隆治さんという、そうそうたる顔ぶれが集結しました。

Bunkamuraオーチャードホール 写真

(上)Bunkamuraオーチャードホールにて無観客で開催された。(下)コンサートの模様は無料でライブ配信された。

コロナ禍でさまざまなイベントが中止・延期になり、歌を歌うことすらままならなかったステイホームの時を経て、久々に歌える喜びを爆発させ、繰り広げられたステージ。上野耕平さんのSaxソロによる「バッハの無伴奏チェロ組曲」で幕を開けると、眼前に広がる客席は無観客ながら、それぞれがカメラの向こう側で観てくれている被災地の人々を想い、熱い音楽を奏でていきました。

平原綾香さん 写真

──出演者の皆さんは、どんなときに「音楽の力」を感じるのでしょうか?

「自分で歌っていて、自分も救われているところがあります。苦しくてもう立ち上がれないっていうときも、歌っているうちに自分も癒やされていると感じます。いちばんよかったと思うのは、歌っていて、人が泣いてくれたり、ここまでがんばれたのは歌の力ですと言われたりしたときに、音楽の持つ力を感じますし、これからもそういう歌を歌わせてもらえたらいいなっていう気持ちになります。」(平原綾香)

杉田二郎さん 写真

「こういう時代に生かされているということを、逆に自分としてはありがたく思うし、非常につらい現実、過酷な現実に直面されている人たちのことをどうしたらいいだろうという中で、お互いに相手の気持ちを心の中で祈り合う。元気出していきましょう、とね。僕は若いころ音楽に出会って、しんどいときも、もちろん楽しいときも音楽があったし、音楽というのは、人間の暮らしの中でなくてはならないものではないだろうかと、改めて思うんです。僕も何度か被災地に行かせてもらって、みなさんと一緒に歌も歌いましたけど、歌っているとき、客席のお顔を見ていると、輝いているんですよね。この瞬間だけでも、よーし、いくぞ、みたいな気持ちになれる。音楽の力はすごいと思いますね。」(杉田二郎)

宮本隆治さん 写真

「とくに私は今日、『戦争を知らない子供たち』を聴けたこと。この曲が誕生したのは、今からちょうど50年前、当時私は二十歳でした。そのときからの自分なりの山あり谷ありの人生を振り返りました。歌というのはつまり、そこに行ってすぐに戻ってこられる。それを瞬時のうちに教えてくれる、お金のかからない周遊切符のようなものですよね。『戦争を知らない子供たち』を、戦後75年という節目の年に聴けた。杉田二郎さん……兄貴の歌がぐっと来ましたね。」(宮本隆治)

いつかのために力をためておくことも大事

上野耕平さん 写真

東京藝術大学の受験があった年に震災があったという上野耕平さん。茨城の実家も大きく揺れ、電気も水道もガスも止まるなど、経験したことのない状況の中、2日後に合格発表のため、お父さんの運転で5時間かけて東京に向かったそうです。震災は、東京に出てくる活動の原点だと話してくれました。

「4月に入ってすぐの授業で、ある先生が、こんなに大きな地震が起きて、なにか自分たちもしなくてはならないと思うかもしれないけれど、今みんなができることは勉強することだと。災害というのはまた必ず起こるから、そのとき力になれるように力をためておくことだとおっしゃっていたのがすごく心に残っています。そのあと、熊本地震があったりして、そういうときに出向いて演奏を聴いていただくという活動につながっています。」(上野耕平)

──いつか力になれるよう、力をためることも必要。その言葉に救われる人は、たくさんいるのではないでしょうか。まさに私も、被災地のために何も力になれていない無力感と後ろめたさを感じながら、過ごしていました。今は音楽の力を感じながら支援ができていますか?

「音楽っていうのは目に見えないものですけど、サクソフォンの場合だと、マウスピースに付いているリードが振動して、その振動音が空気を伝わって聴こえているんです。ただの振動音が夢を持っていると思いませんか。ほかの世界に連れていってくれて、それが活力になる。そんな素晴らしいことはないですよね。お客様の醸し出す空気感がこちらにも影響するので、キャッチボールのように、ステージと客席で一緒に作っています。今日は配信やテレビの画面越しで共有するという、これもまた新たな楽しみ方だと思うんですが、大変な中10年目の節目を迎えようとしていることも、僕はなにか意味があるような気がしています。」

10年は通過点。その先もずっと共に

「2011年からずっと、亡くなられた前田憲男さんが先頭に立って被災地を周ってきて、本当に、よくここまで来たなと思います。
最後に歌った『この広い野原いっぱい』は、本来なら会場の皆さんと一緒に歌うんですけど、初めての無観客で……でも、なんとなく会場に皆さんがいるような雰囲気がして、よかったと思います。音楽には、人と人を結びつける力、それから喜びを2倍にし、悲しみを半減させる力がありますよね。本当に元気になりますし、皆さんを勇気づけることができるということを、今日改めて感じました。

服部CEO 写真

10年はひとつの通過点として、前田先生の遺志を継いで、まずは創業150周年まで。およそ10年後でしょうか……私はちょうど79歳ですね。生きている限り、ずっと続けていきたい。皆さんの協力のもと、ここまでやってこられたので、来年はひとつの区切り、集大成として、今までの活動を形にしたいですね。皆さんと一緒に日本武道館で、大きな声で歌いたい、そういうふうに思っています。」(“わ”で奏でる東日本応援コンサート実行委員会 実行委員長  服部真二)

“わ”で奏でる東日本応援コンサート 2020 in 東京 写真

写真 矢動丸

コロナ禍ということもあり、出演者の皆さん自身も、歌うこと、音楽を届けることの喜びを、思い切り噛み締めていたようでした。体全身から「音楽ができて嬉しい! このパワーを被災地に届けるんだ!」というエネルギーがあふれ、無観客とは思えないくらい熱く、舞台袖で聴いていても心震えるステージでした。音楽がなぜ、人の心にこんなにも作用するのか、ぜひ皆さんにも味わっていただきたい。

被災地を訪れ、自分の目で見て感じることの大切さ、そして、音楽が人々の心に与える喜びや希望、絆……。生きるために大切なことをたくさん教えてもらった今回。コロナ禍で気持ちが塞ぎがちな今も、きっと音楽が必要。さあ、大きな声で歌ってみませんか。来年3月11日、日本武道館でお会いしましょう。

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