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岩手県雫石(しずくいし)。有名な牧場や良質な温泉で知られるこの地には、グランドセイコーの機械式腕時計を製造する「グランドセイコースタジオ 雫石」があります。

雄大な自然と溶け込むように建つスタジオの入り口から、高い天井とガラスに囲まれた見学者通路を進むと、屋内には時計職人たちの緻密な作業風景を、そして屋外には、標高2000メートルの岩手山を携えた、圧倒的な自然美を眺めることができます。

グランドセイコースタジオ 雫石 外観

スタジオの運営を行う盛岡セイコー工業株式会社は、1970年の創設以来50年以上の工場周辺の環境保護活動に続き、約10年前から生物多様性の活動に取り組み、2022年夏には、広大な水辺を含むビオトープを敷地内に開設しました。ビオトープとは動物や植物が生息できる生物生息空間のこと。防災に配慮しながら自然に近い環境を人工的に作り出すことで、生物多様性を確保し、自然との共生を目指すものです。

「ビオトープが念願だった」と語る同社の村里 法志(むらさと のりゆき)さんと、設計を担当した岩手県立大学・辻 盛生(つじ もりお)教授を訪ねて、「わくわくトープ」と名付けられたこの場のこと、そして生物多様性に取り組む想いをうかがいました。

生き物を動的に感じるビオトープの役割

わくわくトープ 設備マップ

「わくわくトープ」について教えてください。

村里さん:「わくわくトープ」は、工場の屋根から溜めた雨水と、元々ここにあった井戸水を水源にして水辺を作り、自然の力で浄化しながら、さまざまな生き物が生息しやすい場になることを願って作りました。

10年ほど前、私たちが生物多様性の活動に取り組み始めた頃から「いつかビオトープをつくりたい」という話をしてきました。生物多様性を更に高めようと考えた時、水辺環境は欠かせないだろう、と思ったからです。しかし、生き物の事を第一に考えた時に一体どのように考えて作ればいいのか、特に、運用を考えた水循環のしくみづくりは、我々だけで設計することはなかなか難しいことでもありました。本格的な準備に1年ほどかかりましたが、県内の環境団体などにも相談し、最終的に水辺環境の専門家である辻先生に辿り着き、岩手県立大学のご協力を得て、こうして完成したことがとても嬉しいです。

村里さんの写真

盛岡セイコーの村里さん。長年、生物多様性を守る活動を続けている同社では、環境課題に関する取り組みに社員の理解も高いという。

雨水と井戸の水がこの池の水になっているんですね。

辻先生:工場の屋根を伝った雨水は一旦、枡に溜められて、井戸水と共に「レインガーデン」に溜まる仕組みになっています。雨水にも植物プランクトンの養分になる窒素分が含まれていたりするんですね。将来の工場排水処理水の導入も意図してですが、水生生物にとって棲みやすい池の状態を保つためにも自然なかたちで窒素分を除去することも必要です。

ここでは、レインガーデンの水が池に移動するまでの間に、有機物を含む池の水と混ぜて、何層かの砂礫に通して微生物たちの作用によって窒素分などを空気中に放散させてから、池の水として活用する仕組みにしました。

辻先生の写真

岩手県立大学の辻教授。水の安定を調べるために、現在は頻繁に訪れて水質調査を実施。

辻先生:ビオトープとはもともと、動植物が安定して生活できる生息空間のことを指しますので水だけではないのですが、やはり水環境が生物にとってはとても重要になるんですね。ビオトープといえば水、というイメージもあるように思います。水辺があることで、例えばトンボが飛んできて卵を産み、かえったヤゴがトンボになって飛び立っていくなど…生き物の一生を見ることができる。水辺は、生物多様性を動的に感じやすい場所なんです。

「わくわくトープ」の池 写真

自然の雨水と、この地にあった井戸の水が使われている「わくわくトープ」の池。

自然の力を再現した水資源循環機構

辻先生:池の中の水も、循環させながら浄化できるように設計しています。少し高さがあるところからせせらぎとして水に動きをつけるだけではなく、必要に応じてろ過できるよう、自然のろ材を活かしたコンテナの人工湿地を作りました。一般的な排水処理施設では動力を使って水中に酸素を送り込みますが、これは水の動きで空気中の酸素を使える仕組みになっています。

コンテナ人工湿地 写真

雨水を水源とし、自然の力で浄化させる「水資源循環機構」の一端を担う「わくわくトープ」のコンテナ人工湿地。

辻先生:コンテナ人工湿地の構造は簡単で、4つのコンテナの箱に砂礫を入れ、自然の植栽などを活かしています。池の水をポンプで送り、上部の配管から一度にザーッと流して止めます。水が湿地の中を下に抜ける過程で水がろ過される仕組みです。植物プランクトンなどの有機物はろ過され、アンモニアなどは砂礫に吸着されます。水が抜けると、その後に入ってくるのは空気ですので、酸素を使って微生物が石に付着した有機物を分解したり、アンモニアを硝酸に変えたりして、水がきれいになっていきます。動力はなるべく使わずに、重力によって水が自然に下がる力を利用して酸素を送り込むことができる。これが最大の特徴です。

でも実は、きれいにし過ぎない、ということも大事なんです。池の水も多少は植物プランクトンがいないと、生物のエネルギー源となる食べ物がないことになってしまいます。ここは元々の水もきれいで透明度が高いので、工場排水処理水を入れていない今はそんなに頻繁に回さなくても大丈夫なんです。

コンテナ人工湿地を見る村里さんと辻先生 写真
人工湿地 写真

お話をうかがった時は植物たちも冬支度の季節。人工湿地に植えられていた植栽は、5月頃大きく鮮やかに咲くノハナショウブや、夏にピンクの花が咲くミソハギ、笠の素材だったカサスゲなど。

たくさんの協力体制で叶った、念願の場

盛岡セイコーが何年も構想していたビオトープ。最初にこの計画を聞いた時、辻先生はどんなお気持ちでしたか。

辻先生:最初に聞いた時は「大丈夫かな?」という思いもありました。というのも自分自身、大学の仕事が長くなり、設計をするのが久しぶりだったためです。しかし、離れていたから故に「やってみたい」という気持ちも大きかった。それに、一般的には自然が豊かとされる岩手県で、あえてビオトープを作る企業もすごいと思いましたし、もしも安定した自然環境が作れたら、今後、保全しなきゃいけない生物を守れる可能性もあるかもしれない。そんなことが頭をよぎって、やってみたい、という期待の方が大きくなりました。

村里さん:実は先生に依頼する前から、今年2022年の夏に完成させたい、というわたしたちの希望がありました。普通に考えたら短い期間だったと思うのですが、こうしてなんとか実現してくださって、本当にありがたかったです。

辻先生:これまでの研究などから、概ねこういうことが可能だろう、といったアイディアが見えていたことと、あと、自分も頻繁に現場に顔を出して、施工を進めながらも少し設計を変更するようなことができました。セイコーさんが柔軟性をもって構えていてくれたことも大きかったと思います。

村里さんと辻先生の写真

盛岡セイコーは今年、岩手県立大学と共同研究契約を締結してわくわくトープの開設に取り組んだ他、環境保全活動のため岩手県・雫石町とは「企業の森づくり活動」協定も締結している。

わくわくトープが完成し、どんな反響がありましたか。

村里さん:ここは元々、岩手山がきれいに見えることもコンセプトにして設計されたのですが、今回またさらに仕事中の眺めがよくなって、スタジオで仕事している社員たちの癒しにも繋がっていると思います。社員には、自由に使ってくださいとアナウンスしています。お天気が良い時など、休憩時間に散歩したり東屋でお昼を食べたりして使ってもらいたいです。

8月のオープン時には県内メディアなどにも取材いただいたので、今もまだ外部からの反響も続いています。自然が多い岩手県であっても、こうした場に興味をもってくれる方が多いことは嬉しいですね。

人工湿地の橋の上に立つ村里さんと辻先生の写真

スタジオからの眺望は、奥に岩手山、手前にビオトープが四季折々の表情を見せる。

実際、動植物には何か変化が見られましたか。

辻先生:完成した時が夏でしたので、今年の植物の成長は僅かでした。植物の多くは秋以降に成長を止めて、これから冬を迎えて雪も積もるでしょう。来年の春を迎えてから一体どんな変化が見れるかが今から楽しみですね。

生き物は現状、周辺にいたと思われる飛翔性昆虫等を中心に発見されています。こうした水環境ができたことで自然とやってくる生き物もいますが、いろんな生き物が世代交代までできるような環境に仕立てていきたいと思っています。

村里さん:この場の環境管理は、昆虫などの生息状況を指標にしていきたいですね。すでに専門の先生に見てもらって、ここにどんな昆虫がいるのかはある程度把握できているので、これから環境変化につれて定着する生き物にどんな変化があるか、定期的に観察していくつもりです。昆虫はどうしても、その時に見つけられた虫しか認識できないため、観察もある意味、根気よく、頻度も増やしていきたいです。森の方には、動くものを感知するカメラを4台セットしてあり、2年間ほど動物たちを観測しているので、ここも同じように見守っていきたいです。

わくわくトープの看板 写真

子どもも大人もワクワクする場所になるように、という思いを込めて命名。スタジオ正面側にある「わくわくの森」では、セイコーグループの次世代教育プログラム「わくわく環境教室」も開催している。

地域や次世代にも開かれた場を目指す

「わくわくトープ」の今後の展望などを教えてください。

村里さん:さまざまな可能性を感じているので、いろんな方に開かれた場所にしていきたいです。自然環境を守るだけに限らず、人が関わることを大切にしたいので、学生や、地域の方々、子どもたちなど、多くの方に見てもらって交流できる機会を考えたいと思っています。そのためにも、辻先生をはじめ県立大学との連携や、いろんな先生方にもご協力いただけることを願っています。

辻先生:大学の同僚には魚類や自然植生など、いろんな専門家がいますので、共同研究の形でいいところを活かしあいたいですね。また学生たちのフィールドワークにも活用していい、と当初から言っていただけたことは本当にありがたいです。ふつうの研究フィールドと違って、こうした「ゼロから始まった場所」は、学生に限らず研究者にとっても貴重な場所です。どのように手を加えたらどんな変化が起こるのか、追跡調査ができることも楽しみにしています。

インセクト(=虫)ホテル 写真

「わくわく環境教室」の中で子どもたちが制作したインセクトホテルにも、小さな木々の隙間などに昆虫が訪れる。

村里さん:この場の成長と共に、昆虫や動物が集まり、それが学術的に貢献できることが、ビオトープを作りたかった目的のひとつでもあります。それともうひとつ、生物多様性について考えるきっかけや発信源になれたらいいですね。単純にこのきれいな景色を楽しむとか、岩手山を眺めるなど、別に生物多様性に興味があるないに関係なく、自然と触れ合い、楽しいと感じてもらえたらと思うんです。ここが豊かな水辺になって、蛍が来たりしたら観察会なども計画できるといいなぁと、今はいろんな企画のアイディアを考えています。

辻先生:岩手県は確かに自然が豊かですが、それでも人々の暮らしの営みが広がったり、環境変化などによって、絶滅の途上にある生き物も目につきます。私たちのような環境科学系の研究者は絶滅危惧種の保全も仕事の一環ですので、今後この場が安定したときには、そうした生き物を守るようなこともできたら良いと思います。あまり遠い距離は移動させられないので許される範囲になりますが、そういった生物を見ることができたりしたら、岩手の豊かな自然と生物多様性の奥深さをもっと広く伝えていけるはずです。

村里さんと辻先生の写真
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プロフィール写真

大学教授
辻 盛生

岩手県立大学・教授。水辺の植生・生物、河川・地下水、水質浄化システムなど、水環境に関わるテーマで研究に携わる。

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