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文 折山淑美
写真 フォート・キシモト

2022年1月29日、長年にわたり日本短距離界をけん引してきた“最速女王”が引退を発表した。福島千里――日本選手権で前人未到の6年連続二冠を達成し、3つの日本記録(100m/200m/4×100mR)を保持する稀代のスプリンターだ。

100mで初めて日本記録を出してから13年間。スパイクを脱ぐ福島は、どんな功績を日本短距離界に残してきたのか。1人の有望選手から最速女子へ進化する過程、無敵だった女王時代、セイコー入社後の再起をかけた日々を振り返る。

才能を開花させ、世界を体感した2008年

今でこそ日本短距離界のクイーンとしての地位を確立した福島だが、意外にも学生時代はまだパイオニア的な存在ではなかった。北海道・帯広南商業高時代は同学年のライバルたちが100m、200mともに日本高校記録を出す中、全国タイトルは日本ジュニア選手権の100mのみ。しかし、そのしなやかな走りは、大きな可能性を感じさせた。

そんな福島の才能が一気に開花し始めたのは、北海道ハイテクAC入りして2年目を迎えた2008年だった。4月29日に開催された織田記念の100mでは当時の日本タイ記録11秒36をマーク。さらにその4日後の静岡国際の200mでは、追い風2.7mの参考記録ながら、それまでの日本記録を0秒20上回る23秒13の快走を見せた。

これは幻の日本記録だったが、「これくらいは出したかった」と語った福島にとって、織田記念の日本タイの自信を確信に変えた瞬間だった。

福島千里さん 写真

2008年のスーパー陸上の100mでは海外勢にも競り勝ち優勝。福島にとって飛躍の一年になった     

写真 フォート・キシモト

6月29日の日本選手権の100mは11秒48で初優勝。参加A標準記録11秒32を突破できず、その時点での世界の大舞台の出場権獲得はならなかった。しかし、その8日後の南部記念で優勝して最後の1枠を獲得。同種目では実に56年ぶりの世界の大舞台への出場を果たしたのだ。

世界の大舞台での経験は、福島の進化の追い風になった。「北京のトラックを走ることができましたけど、世界の大舞台は本当にすごくて不思議なところでした。一度経験することで、“絶対にもう一度、出場して走りたい”と思えました。それから練習への取り組みも変わりましたね。」と話す。

瞬く間に日本短距離界のエースへと成長

福島千里さん 写真

快進撃を続ける福島は国内の大会で常に好成績を残すなど日本のエースへと変貌を遂げた

写真 フォート・キシモト

翌2009年も福島の快進撃が続いた。織田記念の100mでは予選と決勝ともに、追い風2.2mの参考記録ながら日本記録を上回る11秒23を出すと、静岡国際200mでは23秒14で日本記録をマークした。

6月の布勢スプリントでは100mで11秒28、11秒24と日本記録を連発。その後の日本選手権の200mでは日本記録を再度更新する23秒00をマークして2種目で世界選手権への参加標準記録Aを突破した。

また、4×100mRでも参加標準記録を大幅に突破する43秒58の日本新をマーク。世界の大舞台での経験から自身が進化したのはもちろん、他の選手のお手本となることで、リレーにおいてもレベルを世界基準にまで引き上げたのだ。

初出場となった世界選手権の100mでは、日本女子として初の1次予選突破を果たした。続く2次予選は0秒03差で準決勝進出を逃す惜しい結果に。200mも同組0秒05差の4位で準決勝進出を逃して涙を飲んだ。

福島千里さん 写真

国内大会でも世界大会でも走るたびに進化を見せつけた福島。各レースでさらなる好記録を予感させた

写真 フォート・キシモト

「0秒00台の差は、ほんの数cmの世界。頑張れば届きそうな差なだけに、勝負の厳しさが身に染みました。着順で準決勝行きを果たすためには、もっともっと勝負できないとダメですね。」と世界の壁を経験した福島は、11月のアジア選手権の100mでは向かい風1.0mの不利な条件の中でも11秒27で初優勝。4×100mRでも優勝するなど、複数の種目でアジアのトップに駆け上がった。
 
走りにおいて国内で圧倒的な実力を誇った福島だが、その韋駄天ぶりを自身の言葉で表現することはあまり得意ではなかった。理想の走りのイメージを質問した際に、しばらく考えてから「ギュ~ンという感じで速く進むんです。」と答えたのは印象的な話だ。

しかし、それは周囲に福島の感覚を理解できる者がいなかったとも言えるだろう。研ぎ澄まされた自分の鋭い感覚の中で、さまざまなことに思考を巡らせてより良い身体の使い方を追求し、実践する。それが、福島が日本女子最速のスプリンターにまで成長できた大きな要因だ。

当時、指導していた中村宏之監督も「彼女のすごいところは、練習でも1本1本真剣に考えているところ。一見すると問題ない走りでも、必ず“まだこれじゃダメです”と言っていましたからね。」と話していた。そんな頑固とも言えるまでのストイックな自分の身体や動きへのこだわりが、彼女を異次元の世界に導いたのだ。

21歳で11秒21の100m日本記録を樹立

福島千里さん 写真

2010年織田記念の100mで、未だに破られていない11秒21の日本記録を叩き出した

写真 フォート・キシモト

日本短距離界において押しも押されもしないエースへと成長を遂げた福島だったが、速さへの飽くなき探求心は尽きることがなかった。さまざまな工夫で体を鍛えるとともに栄養の摂り方も考え、「速く走れるようになり、強くもなれるようにすべての面で変わるのが目標。」と強く宣言した。

そして、迎えた2010年は福島がもっとも進化した年だと言える。4月29日の織田記念100mで2022年現在でも破られていない11秒21の日本記録を出すと、4日後の静岡国際200mでは日本女子初の23秒突破となる22秒89をマーク。その記録は同年世界ランキング33位と38位に入る世界水準の好タイムだった。

6月の日本選手権では、100mを制した後の200mではトップと0秒01差の2位に終わる。本人も記録を期待され続けることへの苦しさがあったと認めたが、8月に戦いの場を世界に求めてヨーロッパを転戦することでそのモヤモヤを自ら取り払う。

高みを目指すうえで刺激となった世界での戦い

福島千里さん 写真

日本女子初の100mと200m二冠獲得の偉業を達成した福島。アスリート・オブ・ザ・イヤーにも輝いた

写真 フォート・キシモト

3レースで1位2回、3位1回という成績を残すと、9月にはアジア代表としてクロアチアで開催されたコンチネンタルカップにも出場。6位という結果だったが、福島は「速い人たちの組に入れてもらえ、すごく高いレベルのレースで走らせてもらった感じです。」と笑顔を見せながらこう語った。

「自分が目指すのは世界で戦うことなので、こうやって海外に出てくると自分が目指すレースができますし、“挑戦しなければいけない”という気持ちも強くなります。だからもっと積極的に海外のレースにチャレンジして、年間を通したアベレージを上げて行きたいです。」

世界と戦う新たな刺激を肌で実感した福島は、その経験を武器に11月のアジア大会で会心の走りを見せる。日本女子初の100mと200m二冠獲得という偉業を成し遂げた。そうした功績や100mでの日本記録更新などもあり、2010年はアスリート・オブ・ザ・イヤーにも輝いた福島。しかし、数々の栄冠に彩られながらも、速さの探求心は留まることを知らなかった。それは日本の頂点を極めた後もまったく変わらなかった。

6年連続で日本選手権二冠の偉業を達成

福島千里さん 写真

日本最速女王は、自らのタイムの追求だけではなく、日本代表のリレーチームもけん引した

写真 フォート・キシモト

2011~12年にかけては、ロンドンを目指す日本代表における役割も変わった。福島は日本のエースとして、4×100mRの出場権獲得のためにリレーにも力を入れなければいけないハードスケジュールに追われていた。それでも2011年8月の世界選手権では100mと200mで準決勝進出の快挙を果たす。そして、2012年の世界の大舞台においては、A標準突破の100mとB標準突破の200mで出場権を得ただけでなく、4×100mRでも日本女子を64年ぶりの出場に導いた。

2013年シーズンは世界選手権で200mに出場。連覇を狙ったアジア大会の100mは0秒01秒差で2位、200mは3位という結果だった。

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2016年の日本選手権100m・200mで6年連続二冠という前人未到の偉業を成し遂げた福島

写真 フォート・キシモト

2015年は5月に200mで23秒11を出し、6月のアジア選手権は11秒2台を取り戻して3大会ぶりに優勝と調子を上げた。8月の世界選手権の100mは、向かい風0.5mだった予選第7組で国外日本人最高の11秒23で走って3位になり、以前からの目標だった着順で準決勝進出を果たした。

さらに2016年の日本選手権で100mを11秒45で制した後、200mでは22秒88の日本記録を出して優勝。6年連続で日本選手権二冠の偉業を達成するとともに、2種目ともに参加標準を突破してリオデジャネイロ行きを決めた。しかし、迎えた3度目の世界の大舞台では好調を維持していたものの、直前合宿で左太腿を痛めて100mは棄権。200mのみに出場して予選第7組5位という結果になった。

セイコー入社後も速さに挑戦し続けた福島

福島千里さん 写真

2018年にセイコー入社。山縣とチームメイトとなり、男女の日本短距離界のエースがタッグを組んだ

写真 フォート・キシモト

2017年は福島にとっての転機となる。前シーズンから続いていた痙攣にも悩まされる中、日本選手権の100mで2位、200mは5位となり、連覇が途切れのだ。新たな道を模索し始めた福島は、2018年にはより良い練習環境を求めてセイコーグループ株式会社へ女性初の社員アスリートとして入社を果たす。後に男子100mで日本記録を更新する山縣亮太とともに練習することで、自国開催となる4度目の世界の大舞台での復活を目指し始めた。

再起を誓った動きは、春の織田記念の100m11秒42での優勝と静岡国際200mの23秒35での優勝につながる。そして、6月の日本選手権は100m2位だったものの、200mでは見事に王者奪還を果たす。3大会連続のアジア大会では、100m、200m、4×100mRの日本代表にも選出された。

しかし、本番は100mこそ予選は走ったが、他の2種目はアキレス腱周囲炎のために欠場という結果に。その後もアキレス腱痛に悩まされ、2019年と2020年は日本選手権の出場権すら取れずに終わった。

福島千里さん 写真

13年間にわたり最速の座を守り続けた福島。今の彼女の目には次なる挑戦へのステージが映っているのだろうか

写真 フォート・キシモト

2年連続で日本選手権を逃す状況に陥りながらも、福島は最後まで自国開催の世界の大舞台への道を諦めることはなかった。2021年の日本選手権には、20日前の布勢スプリントで参加標準記録を突破したことで出場を果たす。しかし、追い風0.8mで迎えた予選でまさかの敗退。「ここで何かを決められる状況ではありません。」と去就についての明言は避けたが、夢破れた福島が次なるキャリアを見据え始めたのは確かだろう。

日本女子トップスプリンターに躍り出てから13年間。60mと4×100mRも加えると、11回も日本記録を更新した。日本選手権6年連続二冠を含む、100mと200mで8回ずつの優勝。世界の大舞台に3大会、世界選手権には4大会に出場するなど、その輝かしい功績について言及すれば、枚挙にいとまがない。

数々の“日本女子短距離初”を記録した最速女王・福島。鮮烈に走りを見せ続けながら、日本人女子スプリンターとして世界への道を切り開いた彼女の姿は、多くの人たちの脳裏に強烈な印象を残したことだろう。

福島千里が歩む引退後のセカンドキャリアについてはこちら

福島千里が見据える“私らしいセカンドキャリア”とは

福島千里 写真

CHISATO FUKUSHIMA

セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
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福島千里

セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
福島千里

北京・ロンドン・リオデジャネイロと3大会連続で世界の大舞台に出場。女子100m、200mの日本記録保持者。日本選手権の100mで2010年から2016年にかけて7連覇を成し遂げ、2011年の世界陸上では日本女子史上初となる準決勝進出を果たした。引退後は「セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)」に就任。「セイコーわくわくスポーツ教室」などの活動を通じて次世代育成に貢献している。

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