文 久下真以子
2021年6月6日の布勢スプリント(鳥取)・男子100m決勝で日本記録となる9秒95をマークし、日本中を沸かせた山縣亮太。続く6月25日の日本選手権・男子100m決勝で3位に入り、同種目と4×100mリレーにおいて世界の大舞台への切符をつかんだ。
まるで“不死鳥”のごとく度重なるケガや病気からカムバックし、その度に周囲の期待以上の復活劇を演じる山縣には、さらなる高みへの到達を期待せずにはいられない。もちろん、山縣自身もその腹積もりでいる。日本選手権後に行われた記者会見では、「世界の大舞台での決勝進出を目標にして頑張りたい」と宣言。選ばれし8人しか立つことが許されない、世界最速の座を懸けた舞台への挑戦を表明した。
果たして“日本最速の男”は世界の大舞台で、日本人では89年ぶりとなる決勝進出の快挙を成し遂げることができるのか。アトランタの地で日本人28年ぶりの100m準決勝進出を果たし、北京では4×100mリレーで日本に銀メダルをもたらしたレジェンド・朝原宣治さんに展望を聞いた。また、中国の蘇炳添(そへいてん)が持つ100m9秒91のアジア記録の更新の可能性についても語ってもらった。
「神運」だった。日本新記録9秒95までの復活劇

100m9秒95の日本記録更新をセイコーの掲示板とともに報告する山縣(山縣亮太選手着用時計 セイコー プロスペックス SBDB027)
布勢スプリントでは、9秒95の日本新記録を出した山縣選手。朝原さんは山縣選手の走りをどうご覧になりましたか。
世界の大舞台の派遣標準記録が10秒05です。4月に行われた織田記念で10秒14だったので、気象条件も良かった布勢スプリントでは10秒0秒台は確実に出るなと思っていました。実際に予選で10秒01をマークしたので、3週間後に控えた日本選手権のことも考えて決勝は辞退するか、もしくは無理なく走るのかなと思っていたんですよ。だから9秒台を出すのは正直、あまりイメージしてなかったので驚きました。
追い風2.0mという条件も後押ししましたが、日本記録更新の走りそのものはいかがでしたか。
本人も言っていましたが、予選からスタートと中盤の走りがすごく良かったですね。ただ、レースの後半は「ふわふわした」感覚だったようです。というのも、前傾姿勢をかけているのに、スピードが速すぎて足がいつものように前に出ていませんでした。レース終盤は最高速度に足が追いついていなかったという見解です。ただ、それでも9秒95という驚異的な記録だったので、そのスピードで最後まで地に足が着いた走りができれば、もっと良いタイムが出ると思います。

9秒95を記録した布勢スプリントでは、ゴール直前は文字通り浮くような走りだった山縣
写真 アフロスポーツ
そして、日本選手権では3位。見事世界への切符を勝ち取りました。
もう本当に、「神運」ですよね。だって、2020年開催だったらケガもあって代表入りは難しい状況でした。世界の大舞台が1年延期になり、派遣標準記録を直前に切って、さらには選考会で1000分の1秒差で3位に入るなんて……ちょっと漫画のヒーローみたいですよね。逆境を跳ね除けすぎて、それに快感を覚えているとすら思えます(笑)。まさに“不死鳥”のような活躍でした。
日本選手権は9秒台の選手が4人もいる中での決勝。代表争いの難易度は上がっていると言ってもいいでしょうか。
日本選手権の決勝のタイム的には全体的に10秒台でしたし、山縣選手の9秒台の再現を期待した方からしたら「あれ?タイムが下がっている」と思ったかもしれません。しかし、代表決定に至るまでの各選手のせめぎ合い、派遣標準記録が10秒05という高レベルな点も含めて、選手への精神的プレッシャーは半端ないものがあったと思います。
これまでよりもいろいろなハードルが上がっているので、経験豊富な山縣選手ですら代表権を勝ち取るのに満身創痍の状態だったという印象を受けました。世界の舞台への切符を懸けた2021年の日本選手権100mの決勝は、ものすごい重圧の中で行われたレースだったと思っています。
選手が体感する「100分の1秒の差」とは
では次は選手目線の質問をさせていただきます。たとえば、100分の1秒のタイムの違いは、距離にするとわずか10cmくらいと聞いたことがあります。選手たちは、その差をどう感じているのでしょうか。
準決勝でのタイムが良かった選手から順に、決勝では真ん中のレーンに配置されます。決勝でも真ん中を走っている選手が前に抜け出すケースが多いので、真ん中4つくらいのレーンの選手の並びでだいたい自分の順位は分かりますね。
一方、準決勝でタイムが振るわなかった1レーンや8レーンの選手が前に出てくると、差が分かりにくくなります。真ん中のレーンで走っていると、隣の選手に勝ったか負けたのかは分かりますし、中盤で差がどれくらいあって、「これはキツいな」とか「ここからだったらいけるな」というのは頭で考えるというよりは、トラック上の走りで体感するものですね。

日本選手権で山縣は僅差で3位を勝ち取った。1000分の1秒、100分の1秒の世界で戦っている
写真 アフロスポーツ
今回の日本選手権は、1着の多田修平選手、2着のデーデー・ブルーノ選手が前を走り、後続からも9秒台ホルダーの桐生祥秀選手やサニブラウン・ハキーム選手、小池祐貴選手がかなり迫っていました。100分の1秒、1000分の1秒の重みを改めて感じる結果になりました。
結果的には3位を勝ち取れましたが、山縣選手自身も中盤からの走りにはあまり納得していないと思います。中盤以降で先頭に立ってうまく抜けていたら後ろは気にならなかったはずです。しかし、スピードが上がりきらず最後は珍しく苦しそうにフォームを乱した状態でゴールしました。順位を確保するためのフィニッシュになったことからも、レースの緊迫感は相当なものがあったのだと思います。
山縣選手が日本記録保持者になり、“追われる立場”となった影響もあるのでしょうか。ただ、世界の大舞台では速いスプリンターがたくさんいるので、追う立場にもなりますね。
山縣選手は百戦錬磨でさまざまな国際大会に出ているので、いくら9秒95を出したとはいえ、“追われる立場”とは思っていないでしょう。常に世界基準で競技に取り組んでいるので、浮足立つ様子はまったくなく、上には上がいることをしっかり念頭に置いていたと思います。
世界と戦う鍵は「9秒台の感覚」をいかに研ぎ澄ませるか

トップとの戦いを楽しんでいる山縣。9秒台の感覚を研ぎ澄ませるかが世界で結果を出す鍵となる。
写真 アフロスポーツ
山縣選手は世界のトップスプリンターたちとどんなレースを見せてくれるでしょうか。
僕もそうでしたけど、山縣選手もそうしたトップオブトップを目指した戦いを楽しんでいる感じは伝わってきます。世界のトップクラスのスプリンターたちにはいくら頑張ってもなかなか追いつけないんですよね。僕自身も現役の際は、その高みに挑戦する間に年を取り、徐々に肉体的に差を埋めるのが難しいことを経験しています。世界の舞台での戦いは、「追いついてもまたすごい選手が出てくる」の繰り返しですね。そう簡単に世界との差は縮まりません。
世界の舞台で100m決勝に残りそうな選手についても教えてください。
2021年の6月に行われた全米選手権で、9秒80で優勝したトレイボン・ブロメル選手は優勝候補の1人ですね。自己ベストは9秒77です。仮に山縣選手がいくら万全な状態で臨み、自己ベストを更新したとしても彼を打ち破るのは難しいでしょう。

世界の舞台への切符を手にした今、世界仕様の走りに向けて山縣は調整を続ける
どうしても外国選手は体格や骨格がアドバンテージになりがちですが、山縣選手に何がプラスできれば、互角に戦えますか。
山縣選手もさすがに29歳で身長が伸びることはないでしょうし、すでに肉体を極限にまで鍛え尽くしていると思うので、技術面の進歩が重要になるはずです。これまでは独自の練習法にこだわっていましたが、現在はコーチをつけています。これまでの経験値やコンディション調整を含めて試行錯誤することで、客観的・理論的に自分の走りを最適化できるのではと期待しています。自己ベストを更新した感覚を研ぎ澄ませることが世界の選手と戦う鍵となるはずです。
4月のインタビューで山縣選手は、「足の回転数」を高められれば記録が狙えると話していました。
スプリントは回転数と歩幅の掛け算なので、スピードが上がればおのずとストライドも伸びるはずです。本人が言うように、足の回転数を含め本領を取り戻しつつある点は好材料だと言えます。山縣選手は3月に実戦復帰してから間もないので、まだ徐々に感覚を取り戻している最中です。世界の大舞台の本番までには、トップスピードで走り切る感覚はより研ぎ澄まされていくでしょう。
4月のインタビュー記事はこちら
世界の大舞台での決勝進出、そしてアジア新記録の展望
山縣選手は「100m決勝の舞台に立つ」と目標を宣言しています。
世界には山縣選手と同等の自己ベストを持つ選手がたくさんいます。もちろん、9秒95のタイムであれば、決勝進出のボーダーラインには立っていると言えます。後は体調を万全に整え、自分の走りに自信を持って戦えれば、十分に決勝進出の可能性はあるでしょう。
決勝進出のタイムの目安はどれくらいでしょうか。
100mの会場の新国立競技場は風の条件は悪くなく、向かい風になる可能性は低いと思うんですよ。だから無風状態で9秒台か、10秒0台くらいがボーダーになってくるでしょうね。山縣選手が思い描く理想の走りを世界の大舞台の準決勝で再現できれば、十分に決勝進出圏内に食い込めるはずです。

山縣が見据えるのは世界の舞台での100m決勝進出とアジア記録9秒91の更新だ
山縣選手の調子は上向きなだけに、さらなるタイム更新に関しても期待したいですね。
今回は本当に彼にとってチャンスだと思います。中国の蘇炳添選手が、2018年のアジア大会で優勝した際に9秒91のアジア記録を叩き出しました。170cm前半と小柄ながら本当に速くて強いですし、今シーズンも絶好調なので、まず彼を破ってほしいですね。山縣選手本人も意識する9秒91のアジア記録の更新をまずはターゲットにしてもらいたいと思っています。
セイコーは記録に挑み続ける山縣選手を応援します
セイコーは0.01秒を争うスポーツのタイム・スコアの正確な計測によって、多くの競技を支えています。
肉体を極限にまで鍛え上げ、自らの限界を超えた領域に挑み続けるアスリートたちの成果を記録として残すことで、スポーツが生み出す「ドラマの証人」となってきました。
スポーツに本気で向き合う人の気持ちに寄り添い、その内面に少しでも触れられる機会を作るためにも、HEART BEAT MAGAZINEではスポーツの魅力やスポーツの持つ力を、余すことなくお伝えします。
セイコーはこれからも世界の大舞台での活躍、さらなる日本記録更新を目指す山縣選手を応援し続けます。

RYOTA YAMAGATA
山縣亮太 選手の記事

陸上短距離選手
山縣亮太
長年にわたり日本男子陸上界を牽引してきたトップスプリンター。2021年6月に自己ベスト9秒95で日本新記録を樹立。国内・世界の大舞台で活躍を続けている。幾多の困難から復活してきたその姿から、”ミスター逆境”の異名を持つ。