福島千里「追求するのは、ベストの走りの再現ではない」

文 生島 淳
写真 近藤 篤

長い間、日本のスプリント界を牽引してきた福島千里選手。
スプリンターは、自己ベストが出たレースのことを記憶に深く刻み、その「再現性」を追求する傾向がある。
ところが、福島選手は「過去にこだわらないんです」と言い切る。
なぜ、そうした発想にたどりついたのか、彼女の内面について話を聞いてみた。

「過去のレースにはこだわらない」

福島選手は、100mでは日本選手権7連覇、200mでは6連覇を達成しています。同じスプリント種目ですが、福島選手はどちらが好きですか?

えっ、あまり考えたことなかったです(笑)。200mは練習がきついので、100mのほうが好きかもしれないですけど、両方走れたほうがいいですね。感覚的には100mは弾丸ダッシュみたいですぐに終わってしまいますけど、200mは緻密さが要求されます。

弾丸って単語を使うほど、100mはアッという間に終わってしまうんですね。

100mはスタートしてから30mまでが勝負です。ここでうまく流れに乗れれば、ゴールまで一気に走り抜けられる感じなので。

いままで、いちばんうまく走れたレースとかあるんですか?

過去のレースにあまりこだわらないようにしているんです。

スプリンターだと、いいときの走りの「再現性」を高めるという表現を使う選手が多いですよね。福島選手にはそうした感覚はないんですか?

私は過去のレースは過去のものと考えるんです。「あのときの走りは良かったな」と考えてしまうと、その先に進めなくなってしまうと思いませんか?

なるほど。面白い感覚ですね。過去のイメージは払拭して、その先に進もうという発想なんですか?

「あのときが人生のベスト」と思ってしまうと、その先にある「もっといいもの」が生まれる可能性を失ってしまう気がするんです。だって、再現性を高めるという言葉は、ベストと思われる走りをもう一度するということですから。

過去にこだわると、未来の自分の可能性を狭めてしまうという考えなんですね。

その先にもっといいものが待っていると思います。もちろん、経験としては体に染み付いていると思うので、それを信じて、頭のなかではもっと先に進みたいですけど。

それでも、人間って、自分がいいときのことを忘れるのって難しいですよね。40歳、50歳になっても高校時代はよかった、大学時代は楽しかったと思う人はいますから。

次から次へと新しい自分に出会うためには、「忘れること」もひとつの技術だと思います。もっと、いまの自分にこだわっていきたいので。

そうすると、日本選手権での連覇は、いまの福島選手にとってはどんな位置づけになるのでしょう。

連覇をしようと思ってたわけじゃなくて、毎年、新しい自分に出会いたいと思っていた結果が連覇につながっていたんです。いまの自分は連覇をしていたことに満足もしていませんし、とらわれてもいません。あとから振り返ったら、自分でも「すごいことしてたんだな」と思うかもしれない(笑)。でも、いまは、もっとすごいことが出来るんじゃないかと思って、毎日の練習に取り組んでいます。

新しい自分と出会うためのトレーニング

スプリント種目って、100mだったらそれこそ11秒ちょっとで終わってしまいます。そのために、途方もない練習時間を積み重ねていく。毎日の練習に向き合うモチベーションの維持って、すごく大変なんじゃないですか。

練習、面白いですよ。毎日、課題と向き合っていけば、新しい自分に出会えるかもしれないんですから。その意味では積極的、前向きに練習に取り組めていると思います。でも、課題を克服しても、それは一瞬にして過去のものになるんです。

過去のものになったとしても、体は覚えている?

そうそう。課題が克服できたとしたら、自分としては「よく出来ました」とその場では満足を得て(笑)、すぐに次の課題に向き合いたいですね。

福島選手の発想というか、精神性というか、陸上に対する向き合い方がずいぶん変わってきたような感じですね。

若いころは、走ったら勝ってしまったーーというような時期もあった気がします。3年ほど前からメンタルトレーニングに取り組むようになったのが大きいかもしれないですね。選手にはいい時もあれば悪い時もあります。どんな時でも、さまざまな角度から自分と向き合ってみることが大切で、その過程で自分の弱い部分や、危ういところにも向き合わなければいけないこともありました。それはつらいことだったんですが、速くなるためには必要なことで、迷った時に思いもよらぬアドバイスをいただいたりして、自分としては恵まれた環境で競技を続けられているな、と思います。

飛び降りる勇気さえあれば、新しい感覚と出会える

自分と対峙する作業のなかで、弱い部分だけじゃなく、自分の強い部分にも気づけたんじゃないですか?

私、高いところから飛び降りるのが怖くないんです。

どういうことですか?

きちんと説明しないといけないですね(笑)。本当に高いところから飛び降りるというわけではなくて、練習で「ここから飛び降りる勇気を持てば、新しい感覚をつかめるかもしれない」という瞬間があるんです。ちょっとしたケガをしたりだとか、そういうリスクはあるんですけどね。思い切って挑戦すれば、新しい世界が見えるという感覚です。

福島選手は、選手としてそれを繰り返してきたわけですか?

そうなんです。一度、新しい感覚を手に入れることが出来れば、「あ、この高さからは飛び降りられるんだな」ということが自分で把握できます。じゃあ、次はもうちょっと高いところから飛び降りれば、より新しい感覚が手に入れられるかもしれない。五分五分だったら、飛び降りたほうがいいと思いませんか? リスクはあるにしても。そのためには、出来たことの記憶は消さないといけないですけどね。

次のステップにいくために、忘れることは大切なわけですね。

次の段階に、すんなり行けるわけじゃないですからね。「あのときは出来たのに」と思うと、前に進めなくなります。挑戦、出来た、忘れる。常にその繰り返しです。それを続けられたのも、飛び降りるのが怖くない、恐怖心が少ないのも私の強さかと思います。

飛び降りるのが怖くないという感覚を、もう少し違う言葉で表現できないですかね。

そうですね……(部屋にあったコップを見つける)……コップにいっぱい水が入っているとします。もう、目いっぱい。

表面張力で盛り上がっているくらい?

そう、そんなイメージです。そのコップの水を、「一滴もこぼさずに運ぶ」という課題があったとします。みなさんは、どうしますか。

普通だったら、そろりそろりと運びます。こぼさないようにと細心の注意を払って。

私は、ゆっくり運んでもこぼれるんじゃないか?って思うんです。それならば、弾丸ダッシュで運んでも、こぼれるかもしれないし、うまくいったら一滴もこぼれないかもしれない。私はそう考えるんです。

面白いですね。そう考える人、滅多にいないと思います。

分かっていることしかやらなかったら、その先には行けないんですよ。

コップの水、全力で走ってこぼさなかったとしたら、ものすごい充実感があるでしょうね。ちょっと想像がつかないくらいの。

そういうことって、あるんですよ。高いところから飛び降りる勇気さえあれば、新しい感覚と出会える可能性は高いと思ってやってきました。だからこそ、自分がどこまで行けるのかを知りたいんです。それが走り続けている理由かもしれません。

陸上に集中できる時間が幸せ

2020年は、これまでのキャリアの集大成、と位置づけられているようですが、周りからのそういう声がプレッシャーになったりしませんか。

それよりも、自分に期待を持って練習に取り組めていますね。積極的、前向きな気持ちのほうが強いです。ここ2年ほど、ケガで走れない時期が続いていたので、走れることだけでもうれしいんですよ。

「走れる」って、気持ちいいんでしょうね。

うまく走れた時って、すごく冷静なんです。速いけどスローモーションで流れているようで、技術的なものや自分が大切にしている感覚を追求している感じになるんです。

トップスピードで走る11秒ほどの間に、集中すべきところが分かるものなんですか。

分かります。「あ、完璧な接地だ」って分かります。調子がいい時って、それくらい落ちついているんです。

時間の感覚が変わるんですね。

速い時ほど、時間がゆっくり流れていきますね。反対に、焦っているときは何も出来ずに時間が過ぎていきます。力を出し切れない時は、余計なことを考えたりしているので、集中力が削がれているんだと思います。

充実感のあるレースをするために、日々の練習を重ねているわけですね。

難しいのは、速く走るための「公式」がない世界で生きているってことですかね。しかも調子が悪いからって、遅く走っていいわけじゃない。練習ですら遅く走っていい日なんて、1日もないですから。

そうすると、毎日が大切ですね。

今は、その日やるべきことに集中できている気がします。過去のことにはこだわっていないけれど、2020年の今のほうが競技者としては充実していると思います。

話を聞いていると、メンタルトレーニングに取り組んだことで、前向きに物事を捉えられるようになっているようですね。

遅かろうと速かろうと、常に気持ちは向上していると思います。でも、高いところから飛び降りる勇気は持ってますけど、自信はない(笑)。

えっ、自信はないんですか?

絶対的な自信を持ってレースに臨めるなんて、ないですよ。練習がしっかり詰めたとしても、勝つか負けるかは五分五分です。だから、招集所でも集中を乱されたくないですし。

自分の時間に集中したいわけですね。レースだけでなく、練習からずっと。

陸上だけに集中できる時間が持てるって、本当に幸せなことだと思うんです。陸上をやめたら、ひとつのことにこれだけ集中することってないかもしれませんよね。そう考えると、いま、この時間がとてもいとおしく思えるんです。2020年は、いい時間を過ごせるようにしたいですね。

CHISATO FUKUSHIMA

セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
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セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
福島千里

北京・ロンドン・リオデジャネイロと3大会連続で世界の大舞台に出場。女子100m、200mの日本記録保持者。日本選手権の100mで2010年から2016年にかけて7連覇を成し遂げ、2011年の世界陸上では日本女子史上初となる準決勝進出を果たした。引退後は「セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)」に就任。「セイコーわくわくスポーツ教室」などの活動を通じて次世代育成に貢献している。

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