文 折山淑美
写真 落合直哉
「タイムを削ることは、人間の本能的な喜び」と原晋は話す。2004年から青山学院大学の陸上競技部監督に就任して22年。2009年に同校を33年ぶりに箱根駅伝の本戦出場へと導き、11年目(2015年)の第91回大会で悲願の初優勝を果たした指揮官は、ランナーの「1分1秒を削る」というミッションに対してどのように向き合っているのだろうか。
スペシャルインタビューの後編では、独自のマネジメント論やこれまでの経験をもとに、一般ランナー向けに「より速く走るため」「よりランを楽しむため」の考え方を教えてもらった。(前後編の後編)
その子の今と未来を正しく表現することで自然と成長する
コミュニケーションの基本を教えることのほうが、トレーニング理論よりも重要だと話す原
写真 落合直哉
駅伝でチームを優勝させるために組織作りやマネジメントを徹底的に重視する原が、選手のメンタルコントロールにおいて最も大切にするポイントとは何なのか。
「一番大事なのは、嘘をつかないこと。素質がない子にスカウトの段階で『一緒に世界を目指そう』といった話をするから、その後のメンタルコントロールがうまくいかなくなるんです。嘘を言ったら、そのうちどこかで論理が崩れてくるじゃないですか。『一緒に箱根を目指そう。君ならエースになれる』と言われて入ってきたのに、監督の評価や対応が全然違うとなったらどうです?」
「組織として『優秀な選手を入部させること』を目的にしてしまうと、入った選手も伸びにくい。だから選手たちには事実を事実として、ちゃんと言葉で説明する必要があります。そして最後は、未来志向の言葉を添える。その子の今と未来を正しく表現することで、学生はランナーとして自然と成長してくれるんです」
原は監督を務める中で、周囲から「今どきの若者は……」といった声を聞くことも多いという。しかし22年にわたって学生を見てきた経験から、陸上競技に関して世代による意識の差はないと断言した。
「それは社会が変えただけの話であって、人間は人間、日本人は日本人ですから。真面目で礼儀正しい現代の若者はいますし、『そうでない人』は昔にもいたはずです。時間を守れ、嘘をつくな、挨拶をしろ、といったコミュニケーションの基本は過去も今も同じで、教えることは変わりません。駅伝ではこれらの指導が何よりも重要であり、トレーニング理論なんてむしろ1割くらいでいいと思っていますよ(笑)」
「正しい練習をしろ、練習後はケアをしろ、休む時はちゃんと休め。こういった当たり前のことを徹底させなければなりません。これを守れれば結果も出るようになるし、ケガもしにくくなるんですよね。これは大学駅伝の選手だけでなく、市民ランナーの皆さんにも当てはまることです」
「まず心を鍛えろ」「人前で笑うな」は正しくない
アプローチが正しければ選手はがんばれるし成長もする。原にとっては「駅伝もビジネスも一緒」
写真 落合直哉
武道の教えのひとつに「心・技・体」という言葉がある。精神(メンタル)、技術(テクニック)、身体(フィジカル)のバランスが整った時にパフォーマンスが最大化されるという教訓だが、原は3要素にアプローチする順番が大事だと言う。
「理想は『技・体・心』ですね。正しい教えによって技術力を磨いていけば、その技術を使うのに必要な体ができ上がっていく。そして最後に落ち着きや集中力といった心の部分が付いてくる。『まず心を鍛えろ』と言っても、誰もやらないでしょう。成果が上がれば、面白さは倍増します。さらにその成果が賞賛されて多くの人に注目されれば、『もっとやってやろう』という気持ちになるものです。これは駅伝もビジネスも一緒ですよね。だから、成功した時にどう賞賛されるのかも合わせて考えておかなければなりません」
「箱根駅伝に向けて約4年間、プレッシャーのかかる張りつめた空気の中でがんばり続けるのは本当に難しい。時にさぼることも重要ですし、時にさぼらせることも重要ですね」
この考え方には、ビジネスパーソンとしての原のエッセンスが詰まっている。だからこそ、原に導かれた青山学院大のランナーは苦しい状況でも笑顔で走り切れるのかもしれない。
「笑うことの効果とパフォーマンス向上の関係は、研究でいろいろ明らかになってきています。昔は『人前で笑うな』『競技中に笑うなんて』という感じでしたが、今は指導者も選手たちも考え方が変わってきました。一般ランナーの皆さんは、走りたいから走っていると思うんです。だったら、走ることをとことん楽しみましょう。そして、苦しい時こそ笑ってください」
精度の高い目標を立てる鍵は、自身の走力を知ること
自分の100mのタイムが何秒か答えられる人はほとんどいない。だが、それを知っておくことが重要だ
写真 落合直哉
タイムは、ランナーにとって切っても切れない存在だ。一般ランナーが自身の目標を設定する際は、まず事実を正しく掴むことが何よりも重要だという。
「今より速く走りたいなら、自分の絶対値がどこにあるのかを掴むことが目標設定の第一歩です。それを把握するための究極の練習は、タイムトライアル。まずは基礎的な走力を推し量る基準として、100mのタイムを確認しておきましょう。続けて400m、1,000mのタイムを記録してみてください。そのタイムから5,000m、10,000m、ハーフマラソン、フルマラソンなど、種目ごとに目標を決めていくのが良いと思います。目標の精度が高いほど、達成した時の喜びも大きくなるはずです」
その上でさらに走りにこだわろうと思えば、こういう楽しみ方もあると提案する。
「一般ランナーは、自身で監督、コーチ、マネージャーという三役をこなしています。普段は意識していないかもしれませんが、これって『自分のチーム』を持っているのと同じ感覚なんですよ。レースの戦略を考えたり、新しいトレーニングを取り入れたり、コンディションを調整したり。1人でチームをマネジメントしているという気持ちで走れば、また違った面白さが見つかるでしょう」
「向上心が強い方には、さまざまなデータの分析によって自分のパフォーマンスを科学で捉えるアプローチもおすすめです。陸上競技は、さまざまなデータと向き合うことで記録を更新しやすくなります。『何分何秒でゴールできた』というタイムの目標とはまた違った視点で自分と向き合えますし、よりランを深く楽しめると思います」
また「楽しむ」という点では、五感を使いながらランニングをすることもおすすめだと話す。
「タイムとストイックに向き合うのも一つですが、そうではない楽しみ方もあっていい。爽やかな風、穏やかな日差し、木々の色づき。こうした四季や景色を目や耳、鼻などで感じながらランニングをするのも良いでしょう。ランナー同士で会話しながら走っても良いですし、『あの選手の後ろを付いていこう』といった瞬間的なミッションを設けながら取り組むのも面白いと思います」
「走るのって、楽しいんです。一般ランナーの皆さんには、いつまでも『エンジョイする』という大前提を忘れないでほしいですね」
箱根駅伝は「社会課題を解決するためのコンテンツ」
「新幹線や飛行機の進化を見ていると、時間がいかに高価な買い物なのかが分かる」と原は笑う
写真 落合直哉
原にとってタイムとは何か。箱根駅伝でチームを3連覇に導いた指揮官は、タイムマネジメントの本質を独自の視点で捉えている。
「時間は嘘を付きません。駅伝やマラソンなどの陸上競技において、事実を語ってくれるのが時計なんです。時間はこの世に生きる人々に唯一平等に与えられるものですが、その与えられるものに対して我々が1分1秒を削るために必死になっているというのはなんだか面白いですね。この世のテクノロジーのほとんどは、時間短縮のために生まれました。タイムを削ることは、人間の本能的な喜びなのだと思います。そう考えると、私の仕事は非常に重要ですね(笑)」
最後に、原個人の今後の目標について尋ねた。
「スポーツって、社会課題を解決できる大きなツールだと思うんです。スポーツには『するスポーツ』『見るスポーツ』『支えるスポーツ』『応援するスポーツ』といった概念がありますが、我々はありがたいことに、駅伝という「するスポーツ」を通して残りのスポーツに関わる方たちにいろんなものをお届けできる環境にいます」
「誰かの心を豊かにできる可能性があるし、地方創生に貢献できるかもしれない。だから、単に箱根駅伝で勝ったとか負けたとかではなく、社会の課題を解決するためのコンテンツとして箱根駅伝があることを強く意識し、これからも活動していきたいなと思っています」
陸上競技部監督
原晋
1967年、広島県三原市生まれ。中学から陸上を始め、広島県立世羅高校時代に全国高校駅伝で準優勝を経験。中京大学では3年時に全日本インカレ5000mで3位に入賞した。大学卒業後は中国電力へ入社し、陸上競技部へ入部。しかしケガにより満足な結果を残せず、5年で選手生活を終えた後は同社営業部のサラリーマンに。2004年から青山学院大学の陸上競技部監督に就任。2009年の箱根駅伝で本校を33年ぶりに本戦出場に導くと、2015年大会では史上初の箱根駅伝・総合優勝を達成。2026年大会では、大会新記録で史上初の2度目の3連覇を成し遂げた。チームマネジメントの手腕に対しては、ビジネス界からも熱い視線が注がれている。