文 神原英彰(Creative2/THE ANSWER)
写真 松橋晶子
常識を疑う人は「時」を独自の物差しで捉えている。例えば、「速さ」は時間だけで計れるものなのか。そんな根源的な問いを胸に、日々を刻んでいるアスリートがいる。陸上女子中長距離の12種目で日本記録を持ち、Team Seikoの一員として世界に挑み続ける田中希実だ。
連載「時とアスリート」は、アスリートが歩んできた「時間」をひも解く。キャリアの節目に現れた出会い、挫折、栄光――その瞬間を掘り下げ、人生観や哲学を浮かび上がらせる。
第2回に登場する田中は、読書家として知られ、思索を深めながら走りを磨く稀有なランナーである。「命を削る」と表現する競技生活で、世界のライバルと競いながら追いかける「速さ」とは何か。その答えを探るべく、彼女の“時間”を辿っていく。(前後編の前編)
「走れる作家」になりたかった。
小学校の頃から物語の世界で生きてきた。児童文学が好きで、とりわけ現実世界に不思議が入り混じった「エブリデイ・マジック」が大好物。今も年間30冊以上、本を読む。ただ、書店では順路がこの頃、変わった。
昔は児童書の棚に直行した足が、手前の新刊コーナーで止まる。
「新しい知識を得たくて本を読むようになって。専門家じゃない人が別分野について語る本が好き。美術家の方が人体の医学を語るとか、歴史の研究家じゃない人が歴史を語るとか。そういう考察系の本を読んでしまいます」
田んぼが広がるのどかな町から巣立ち、世界は広がった
写真 松橋晶子
読む本はその人の“今”を映す。
田中希実、26歳。本好きで体育が嫌いだった文学少女は、膨らむ知識欲とともに日本最速ランナーに飛躍し、流れる時の中にいる。
長距離ランナーだった両親の影響で、中学1年生でスパイクを履いた。紆余曲折ありながらも走り続けてきた13年間。「一年一年が早いなと思いながら、気付いたらもう13回繰り返している。不思議な感じ」。
幼い頃に描いた夢は「走ることで、世界を飛び回りたい」。
大会や合宿で海外を転戦し、パスポートに押される入国スタンプは増えた。兵庫・小野市出身。無人駅もある静かなローカル線が走り、少し歩けば田んぼが広がるのどかな町から巣立ち、世界は確かに広がった。
印象深いのは初めて行ったケニア。町並みに郷愁を覚え、土埃を上げて走る5人乗りのバイクに驚いた。「タイムスリップしたみたいで、ちょっとノスタルジックで……そういう場所はきっと世界中にあると思う」。
本当は市民ランナーとして「走れる作家」になりたかった
写真 松橋晶子
ただ、本当はありふれた市民ランナーとして「走れる作家」になりたかった。
世界をマラソンで旅して、メルヘンな情景をメルヘンに書く。けれど、今の彼女は“物語にされる側”に立たされている。小学校時代、100mで20秒を切れないが、そのペースを持続させる稀有な才能が、いつしか国を背負って世界を飛び回る走力へと進化する。
そんなギャップに自分が追いつかず、苦しい想いもした。
いつからか「走る哲学者」と呼ばれる。レース直後の「怒りよりも自分への赦しが必要だった」といったコメントが切り取られ、求道者のような印象が焼き付く。当の本人は「本来、ズボラな部分の方が多いくらいなのに……」といたずらっぽく笑う。
実際のところはレース翌日に大好きなスイーツを頬張り、お酒もたまに飲むという。「ケニアのマンダジという揚げパンが好き。合宿中にそれが食卓に出た時はちょっと嬉しくて……」。そう語る姿はむしろ“普通”で、人間らしさを感じさせる。
「本は電子書籍もあるけど、インテリアとして残しておきたい本は紙で買う。走るにしても自分の好きなコースを選んで、森の中だったり、自然の中を好きなペースで走っている時はすごく幸せ」
答えのない問い――「速さは時間で計れるものなのか」
写真 松橋晶子
しかし、競技の本質に近づくと、途端に“普通”は消える。
陸上ほど分かりやすく、そして、残酷なスポーツはない。「走る」という単純動作で、タイムが勝敗を決める。だが、彼女は問う。「速さは時間で計れるものなのか」と。
「やればやるほど“速さとは何か”が分からなくなる。フォームを少し変えるだけで速さが変わる。しんどさは変わらないのにタイムは変わる。それは、どういうことなのか。
数字に縛られると走りを見失う。逆に、時間の概念が消えた瞬間、人は速くなるのではないか。時間をすっ飛ばしてでも速くなりたいと思った時の方が時間もついてくる」
一見すると、不思議な言葉が並ぶが、ひも解けば、トップアスリートの境地を表現している。
あるラインを越えた先に、論理や常識が通用しない世界がある。その時、走りを支えるのはただ一つ、少年少女が最初に抱くような「速くなりたい」という無垢な衝動。
「海外のトップ選手も理屈じゃない動きをしている。なんで、ラストにまた速くなるのか本当に分からない。『ラスト100mを13秒で』なんて(理屈で)走ってない。でも『一歩でも速く』とは思っているはず。その差は何なのか」
答えのない問いを、自分にぶつけながら走り続けている。
競技生活を「命を削る」と表現する真意
写真 松橋晶子
田中は競技生活を「命を削る」としばしば表現する。
「寿命が縮むような」という温度感の比喩ではない。一秒を削り出すために、身も心も削られる。「それも競技にかけてきた時間、産まれてから生きてきたすべての時間があるから、どんどん重みが増していく」。
彼女にとって、積み上げてきた時間は“命”そのもの。だから「自分で自分に報いたい」という想いが強くなる。
「『自分=命』なので。それぞれが生きてきた時間をかけて(競技を)やることで、命を削られる。それだけ(競技に人生を捧げることは)リスクはある。でも、だからこそ生きていることを感じられると思う」
しかし、どれだけ命を削っても「努力」には報われるものと報われないものがある。単純に時間を注げば、金メダルを獲れる世界ではない。
異例の3種目に挑戦した2022年オレゴン世界陸上、実業団を退社し退路を断ってプロランナーに転向した2023年、1秒差に泣いて決勝に残れなかった2024年パリ……。多くの選択と挑戦の先に今がある。
「その時々の決断も中途半端にやっていたら黒歴史になっていたと思う。でも振り返ると、その一つ一つが真剣だった。それなら、過去の自分を切り捨てることはしたくない。次に生かすしかないと思う」
その一瞬一瞬に、問い、悩み、走り続けてきた田中希実。
2025年9月、競技人生で特別な瞬間を迎えた。
東京世界陸上。
速さとは何か――その問いの続きが、国立競技場に待っていた。
(後編へ続く)
陸上競技・中距離選手
田中希実
1999年9月4日、兵庫・小野市生まれ。ランニングイベントの企画・運営をする父、市民ランナーの母に影響を受け、幼い頃から走ることが身近にある環境で育った。中学から本格的に陸上を始め、西脇工高(兵庫)に進学。同志社大を経て、豊田自動織機へ。2023年4月にNewBalance所属アスリートとして プロ転向。2021年東京五輪1500mで日本人初の8位に入賞するなど、複数種目で日本記録を保持する。趣味は読書。好きな本のジャンルは児童文学。とりわけ現実世界に不思議が入り混じった「エブリデイ・マジック」が大好物。