文 折山淑美
写真 落合直哉
東京開催となった9月の世界陸上・男子400mで日本新記録となる44秒44をマークし、34年ぶりとなる決勝進出(6位入賞)を果たした中島佑気ジョセフ。2024年に開催されたパリの大舞台で男子4×400mリレーに出場しアジア新記録の樹立に貢献した23歳の新シーズンは、ケガからのスタートとなった。
「ケガをした時はさすがに落ち込んだ」という若きスピードスターは、そこからどのように心身のコンディションを立て直し、大観衆の前で最高の走りを見せるに至ったのか――。2025年シーズンの総括と、日本記録更新の裏側について話してもらった。
ケガも捉え方によってはプラスに転換できる
去年(2024年)のケガがあったからこそ、「焦らずに短時間で気持ちを立て直せた」
写真 落合直哉
「2月に脛を疲労骨折して1ヶ月ほど休み、復帰後のアメリカ合宿ではマイコプラズマ肺炎にかかって2週間ほど動けなくなりました。そして帰国後、病み上がりの状態で練習を再開したら今度は肉離れをしてしまって。セイコーゴールデングランプリやアジア選手権というシーズン前半の重要な大会をすべて棄権しなければならなくなりました。災難続きというか、最低の状態からのスタートでしたね」
ケガをした時はさすがに落ち込んだものの、「焦らずに短時間で気持ちを立て直せたのが大きかった」という。そこには、ケガに苦しんだ2024年の経験があった。パリの本番では状態こそ悪くなかったが、ケガの影響で自信を持ってレースに挑むことはできず。しかし、その悔しさの中でケガも捉え方によってはプラスに転換できることを学んだ。
例年なら世界陸上は8月開催だが、今年の東京大会は9月中旬に開催されている。この1ヶ月程度の準備期間も、心の余裕につながった。
「自国開催というこの上ない機会を絶対に諦めてはいけないと思ったし、ケガという最悪の状態でも可能性がゼロになったわけではない。そう自分に言い聞かせ、小さな糸口をつかむために集中しました。再発しやすい肉離れは絶対に避けなければならず、しかも参加標準記録(44秒85)を切らなければならないという状況でしたが、はやる気持ちを抑えてやるべきことを冷静にこなせたと思います」
そのようにメンタルを保てたのは、故障するまでの3ヶ月間にわたる充実した冬季練習で蓄積したものが完全には失われていないという感覚があったからだ。それまでの自己ベストは45秒04だったが、冬季練習を経て44秒台へのビジョンは明確になりつつあった。前半は離されない程度についていって、ラスト150mで勝負。前半の加速を強く意識してきたこれまでとは異なるレース運びに、確信に近い手応えがあった。
少しずつ体に馴染んできた納得の走り
ケガで出遅れたものの、レースが少ないという状況がコンディション面ではプラスに作用した
写真 落合直哉
中島にとってのシーズン初戦は、7月4日から始まる日本選手権。「まだリハビリ状態」で練習の完成度も50%程度という中で臨んだレースは、予選は45秒88で通過、決勝は45秒81で5位という結果に終わる。
「400mであと1秒を縮めるのはとても大変なこと。でも、根本的に見直さなければいけないと感じました。まだスピードが戻っていない中で頭の中にある理想とのギャップに焦り、『前半からいかなければ』という気持ちが先行してしまったと思います」
しかし、その反省を活かせる機会はすぐに訪れた。2025年8月3日に行われた富士北麓ワールドトライアルの決勝。そこで自身初の44秒台となる44秒84をマークし、晴れて世界陸上の参加標準記録をクリアした。その後、8月20日のトワイライトゲームでは前半と後半のラップタイム差が0.2秒という“超後半型”のレース展開を試し、ここでも納得の走りができたという(45秒10)。
春先から走り出していればレース数も多くなり、疲労も少なからず蓄積してくる。だがケガからスタートしたシーズン、4レースを走っただけのフレッシュな状態で世界陸上に臨めたことはコンディション面で幸いした。
「最も重視したのは予選です。僕の組にはパリ大会で2位のマシュー・ハドソンスミス(イギリス)やヨーロッパ王者のアレクサンダー・ドーム(ベルギー)、今回銅メダルに輝いたバヤポ・ヌドリ(ボツワナ)といった43秒台から44秒1台で走れる選手がいて、そもそもレベルが高かった。その中で2着以内に入れば準決勝はいいレーンで走れますし、『予選より少しギアを上げれば決勝に行ける』という自信にもなります。そういった状況を作りたかった」
安定力と爆発力を両立できる選手こそが一流
国立競技場の大歓声を耳にして、「世界最高の環境に恵まれたと感じた」という中島
写真 落合直哉
地鳴りのように響くホームの大歓声。これを「自分のエネルギーにする」とマインドセットし、「この最高の機会に結果を出す」という確信を持ってスタートラインに立てたという。そして、レースは完璧だった。
「前に強い選手が3人いたのも良かったですね。彼らとの位置関係を見ながら、200mまでは自分がやりたいことができました。ラスト150mの時点では5番手くらいでしたが、みんな射程圏内にいて。『このくらいの差なら誰にも負けない』という自信もありました。そこからピッチを上げ、最後は横を見る余裕を持ちつつ2着に入れたのはすごく良かったです」
結果は、44秒44の日本記録。2日後の準決勝でも、ハドソンスミスやムザラ・サムコンガ(ザンビア)、キラニ・ジェームス(グレナダ)などの上位記録保持者を上回って2位で決勝へ進出した。同種目での決勝進出は、91年の世界陸上で7位に入賞した高野進以来の快挙。中島は2日後の決勝でも44秒62の好タイムを記録し、日本人過去最高位となる6位入賞を果たした。
4×400mリレーの予選でも1走を務めて44秒台(44秒65)をそろえた中島は、「世界で戦えた実感はあります」と世界陸上でのパフォーマンスを自己評価する。
「僕は一度バリアを破ってしまえば、その後は同じようなレースを再現できるタイプなんです。それ(44秒台)を世界最高の舞台で、しかも疲労がある中で実現できたことに価値がある。ただ、ここから金メダルを目指すとなれば、予選から準決勝、決勝とさらにギアを上げ、極限の状態で43秒台中盤を出さなければなりません。その点では、まだまだ足りないですね。ウサイン・ボルト選手もキラニ・ジェームス選手もそうですが、『安定して強い選手』が僕の目指すところです」
来シーズンの目標は、今回確認できた安定力に爆発力を加えることだ。一見矛盾するようにも思える2つの要素については、「両立できる選手こそが一流」と中島は話す。
「まずは44秒2台くらいで安定して走れる力をつけること。そしてアジア大会で金メダルを獲り、アルティメット世界選手権でも43秒に到達してメダル獲得を目指したいと考えています。この2つの軸が来シーズンの目標です。これからケガをせずにトレーニングを積み上げ、今年できなかったジャンプトレーニングなどでスプリント能力を高められれば、44秒2台はすぐにでも到達可能かなと思っています」
400mは過程にすごく緻密さや繊細さがある種目
400mには、自分独自のレースを組み立てる「職人的な楽しさ」があるという
写真 落合直哉
1991年の世界陸上で高野進が44秒78の日本記録を出してから、長く止まっていた日本男子・400mの時間。佐藤拳太郎がこの日本記録を0秒01更新した23年の世界陸上から歴史は再び動き始め、それを一気に加速させたのが今回の中島だ。中島は、偉大な“レジェンド”高野の存在をどう捉えているのだろうか。
「高野さんは、ファイナリストになることの価値を世間に認知させた方です。今回の経験を通して、世界のファイナリストというのは本当に胸を張れる成果なんだとあらためて思いました。実際に今回の結果をすごく評価してくださって。とても嬉しかったです。34年ぶりに同じ場所で決勝に進んで、日本記録も更新というのは、何か運命的なものを感じますね」
「高野さんは400mを『オタクな種目』と言っていましたが、本当その通りだなと思います(笑)。100mのような派手さはなく、練習も地味できつい。ただ、戦略的な幅の広さや複雑さもそうだし、『いかに出し切るか』を追求するところに職人気質を感じるのがすごく好きです。選手のスタイルもさまざまで、スピードに乗ってドラスティックにレースが動いていくのも面白い。スプリント力やスタミナだけでなく、いろんな要素を噛み合わせないと記録はついてきません。44秒と時間は少し長いですが、その過程にすごく緻密さや繊細さがある種目だと思います」
全体のタイムが44秒00なら、100mの平均ラップは11秒00。そのスピードの中でコンマ数秒のタイムの出し入れをしながらレース展開を組み立て、全力を出し切った状態でゴールすることを目指すのが400mの魅力であり難しさだ。さまざまな条件の中で瞬時に頭と体で対応しながら、最高の表現へと導いていくことに面白さがある――そう中島は教えてくれた。
そして最後に、ファンに向けてメッセージを送ってくれた。
「今回、たくさんの方に注目していただいて最高の経験ができました。これからもみなさんを驚かせるような結果を出して、多くの人たちを引き込むような走りをしたい。そういう姿を通して陸上の価値を伝えられたらと思っています」
陸上短距離選手
中島佑気ジョセフ
ナイジェリア人の父と日本人の母を持つスプリンターで、専門は400mと4×400mリレー。2024年のパリでは4×400mリレー決勝で第1走者を務め、アジア新記録・日本新記録の樹立に貢献した。2025年9月の世界陸上予選では44秒44をマークし、それまでの日本記録(44秒77)を大幅に更新。決勝では日本勢過去最高の6位という結果を残している。