文 沢田聡子
写真 落合直哉
ヘアメイク 長谷川真美
スタイリスト 田村和之
努力を惜しまない姿勢や練習量の多さ、そしてそれらに裏打ちされた正確な演技から「ミス・パーフェクト」と称されたフィギュアスケーター、宮原知子。選手時代は、2018年の平昌で4位に入賞。世界選手権では2015年に2位、全日本選手権では2014年から4連覇を成し遂げるなど、日本女子のエースとして活躍してきた。
2022年の現役引退後は、スターズオンアイス・カナダツアーに日本人初のメインキャストとして出演。プロスケーターとしても歴史を作っている。細部まで磨き抜かれた美術品のようなプログラムで今なお観る者を魅了し続ける宮原に、スケーターとしてのキャリアを振り返ってもらった。
アメリカでの出会い、日本での戸惑いと成長
小学校3年生の時、初めて参加した国際試合で楽しさを味わったという宮原
写真 落合直哉
現役時代に正確無比な演技で「ミス・パーフェクト」と呼ばれた宮原と、フィギュアスケートとの出会い。それは、アメリカのヒューストンに住んでいた4歳の頃に遡る。アイスリンクがあるショッピングモールに、家族でよく遊びに行っていたという。
「私が『1回滑ってみたい』と言ったのがきっかけです。そこで楽しいと思ったのか、そこから辞めずに今まで来ました(笑)。初めて一人で滑れたことを喜んでいるビデオが自宅に残っていて、記憶の中でもなんとなくその思い出はありますね。スケート教室に入ったのは4歳半くらいだったと思います」
フィギュアスケートでは、ジャンプ時に左回り(反時計回り)に回転する選手が多い。宮原はアメリカでは右回り(時計回り)で跳んでおり、日本に帰ってから左回りに矯正したというが、その背景にはアメリカと日本で異なるスケート環境が関係していた。
「日本ではリンクの数自体が限られていますし、競技人口が多いこともあって一枠(同じ時間帯)で練習している選手の数がとても多いんです。なので、練習の時に自分だけ逆回転だと邪魔になってしまいます。7歳で日本に帰国した当時は『全員が同じ方向でないといけない』という感じもあって、スケートを続けるために右回りから左回りに変えました。
ジャンプの回転方向を変えるのは大変なのですが、私の場合はジャンプを習い始めてからまだ間もなくて、シングル(1回転)の段階だったのが幸いしたと思います。ダブル(2回転)まで習得してから直すのは困難なので、今思えばラッキーだったなと」
宮原の特徴といえば、その一つに挙げられるのが美しいレイバックスピン。ジャンプの回転は左回りに変えたが、スピンは両回転を使い分けており、いつしか代名詞のような存在になった。
「ジャンプよりもスピンのほうがいろんな種類を滑れるようになっていましたし、先生も『試合で誰もやっていないことができるかもしれない。ずっと磨き続けておきなさい』と言ってくださって。私もそこは意識していて、自分にしかできないスピンだと感じていました」
リンクの上でめきめきと頭角を現していった宮原。世界で活躍するような選手を目指そうと思った瞬間は、いつ、どのようなきっかけだったのか。
「最初に国際試合に行ったのが、小学校3年生の時。そこで国際試合の楽しさを味わったのがきっかけだと思います。大会にはたくさんの日本人選手が参加していて、シニアの選手たちとも交流する機会がありました。いろんな刺激を受けましたし、子供ながらに『国際舞台に立っている自分』がとても嬉しかった記憶があります」
キャリアに影を差した疲労骨折とそこからの復活劇
復帰まで約11か月を要した疲労骨折。それでも、平昌への希望は失わなかった
写真 落合直哉
2014年から全日本選手権を4連覇するなど、順風満帆に思えた宮原のキャリア。しかし、2017年1月、平昌のプレシーズンに、左股関節を疲労骨折してしまう。2月の四大陸選手権とアジア大会、3月の世界選手権には参加できず、国立スポーツ科学センターでリハビリに明け暮れる日々を過ごした。
「振り返ってみると、疲労骨折は追い込み過ぎたことが原因だったのかなと思います。練習量と栄養摂取量のバランスがうまく取れていませんでした。『体が軽いほうがいい演技ができる』という感覚がどこかにあって、無意識のうちに食事量を減らしていたのかもしれません。そういうことの積み重ねが負荷となり、最悪のタイミングで表面化してしまったのかなと」
しかし、怪我からの復帰が長引く中でも平昌への希望は失わなかったという。
「その前の1年間もずっと、体を騙しながら演技を続けてきました。痛い時もあれば痛くない時もある。怪我ではなくメンタルの問題なんじゃないか、と思っていたところもあって。だから、診断結果を聞いた瞬間は結構冷静でしたね。『ああ、やっぱり大きい怪我だったんだ』と。治すには休む以外に選択肢がなかったので、逆にしっかり治せば大丈夫だろうと割り切れました。
リハビリを行っていた国立スポーツ科学センターでは、スピードスケートの高木菜那さんなど、他競技のアスリートともお話をする機会がありました。それまではフィギュアスケーターとの交流しかなかったので、新しい世界を見たような感覚でしたね。自分よりひどい怪我の方もたくさんいましたが、皆さんすごく明るくて。そういったこともあってか、以前よりも試合の楽しさを感じられるようになりました。あらためて、『自分はスケートが好きなんだ』と確認できた時間だったと思います」
そして2017年11月、ついにグランプリシリーズの初戦となるNHK杯で大舞台に復帰。復帰後2戦目となるグランプリシリーズ・スケートアメリカでは優勝を果たし、復活を印象づけた。
「やっと戻ってこられたという感覚でした。当時は実力的に平昌へ行ける位置にいると思っていましたし、そこを逃したら次はないかもしれないという気持ちもありました。やはり、平昌に行きたいという気持ちが一番強かったと思います」
私がミス・パーフェクト?……そんなことないやろ(笑)
宮原は「パーフェクト」ではなく、「真面目」「完璧主義」といった言葉で自身を形容した
写真 落合直哉
現役時代は「ミス・パーフェクト」と呼ばれていた宮原。その愛称について、率直にどう思っていたのかを聞いてみた。
「正直に言うと、自分がそう呼ばれるスケーターとしてふさわしいのか不安でした。いや、不安というよりも『全然そんなことないやろ(笑)』という思いのほうが強かったですね。確かに、『普通にやれば失敗はしないだろう』と思えるほど自信を持ってやれた大会もありましたが、競技生活をトータルで見ると、『ミス・パーフェクト』の看板を背負うだけの自信はなかったです」
観客席から見ていた氷上の姿は本当にパーフェクトだったが――そう重ねてみたものの、「いえ、全然ミス・パーフェクトじゃないですよ」と宮原は笑う。では、「ミス・パーフェクト」でないとしたら自身を選手としてどのように捉えていたのか。
「そうですね……一言で表すなら『真面目』でしょうか。ふざける時もちろんあるんですけど、『これはやらないと気が済まない』ということは、絶対にやりたいタイプなので。それをやっておかないと、滑る時に自信が持てないんです。その時その時で『やるべきことを全力でやりたい』と考えて生活してきたので、完璧主義の部分はあるかもしれませんが、後悔はあまりないですね」
平昌から4年後、出場が叶わなかった北京での祭典から約1か月後となる2022年3月に引退を発表した。宮原は、当時の心境をこう振り返る。
「北京の前のシーズンは、実はグランプリシリーズ開始前から引退を考えていたんです。世界選手権の結果が悪かったので、その時にコーチに意思を伝えました。でも、ずっと北京に向けて頑張ってきたことをあらためて思い返し、『今辞めるのは違うな』と。最終選考会だった全日本選手権に向かうにあたり、練習では全部やり切ったという気持ちが強かったんです。でも、本番(フリー)でジャンプを失敗してしまった。その瞬間、『北京はないかも』と思ってちょっと諦めた自分がいましたね。全日本選手権に向けては思い残すことがないくらい追い込んできたので、やり切ったというのは正直な気持ちです」
現役引退後の新たなモチベーションと使命感
スケーターだけでなく振付師としても活動中。セルフコレオのプログラムにも期待が集まる
写真 落合直哉
宮原は現在、プロスケーターとして活躍中だ。トップフィギュアスケーターが多数出演する「スターズオンアイス・カナダツアー」には、日本人初のメインキャストとして参加した。そして昨年9月には、日本スケート連盟の理事に就任。スケーターや理事職と並行して、振付師としても活動している。
「現役最後の数シーズンは、海外の方とアイスショーに出る機会も増えました。現役時代からスターズオンアイスの日本公演にはたくさん出させていただいたこともあり、カナダツアーへ参加できることになった時は本当に嬉しかったです。北米ツアーは十数名の決まったキャストだけで行われるので、日本公演とはまた違った特別感がありますね。
理事のお仕事では、今年初めて全日本強化合宿に行きました。長野県の野辺山高原で行われた全国有望新人発掘合宿では理事ではなく講師という立場で参加したのですが、この数ヶ月でやっと現役スケーターの方たちと関わる機会が増えてきて嬉しいです。私なりに少しアドバイスさせていただいたりもしています。時代とともに、プログラムの雰囲気も変わってきましたからね。今はモダンな動き、オーソドックスなバレエよりもコンテンポラリー寄りの振付が増えているように感じています」
「いろんな振付師によるプログラムを、振付を重視した目線から観ることも増えた」という宮原。「自分のアイデアの中に収まりたくないんです」というその言葉からは、「今やるべきことを全力でやりたい」という現役時代と同じような真面目で完璧主義な向き合い方が垣間見えた。
宮原自身の演目についても、セルフコレオ(スケーターが自身で振付を行うこと)のプログラムが増えていくだろう。今後のセカンドキャリアが楽しみな27歳は、「そうですね。増えてくることを私自身も期待しています」と笑った。
プロスケーター
宮原知子
1998年3月26日生まれ、京都府出身。
ジュニア時代には、2011から2012年にかけて全日本ジュニア選手権を2連覇。シニア転向後は、2014年から2017年にかけて全日本選手権で4連覇を達成した。
主な国際大会では、2015年世界選手権2位、2016年四大陸選手権で優勝、2018年世界選手権3位などの成績を収めており、その安定した演技から「ミス・パーフェクト」の異名を持つ。
2022年現役引退を表明し、プロスケーターに転向。
現在は国内外のアイスショーに出演するほか、解説者、そして日本スケート連盟理事としても活躍の場を広げている。