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「もし、時を戻せるとしたら…」 白血病を越え、選んだ“今”という幸せ――時とアスリート・池江璃花子 「もし、時を戻せるとしたら…」 白血病を越え、選んだ“今”という幸せ――時とアスリート・池江璃花子

「もし、時を戻せるとしたら…」 白血病を越え、選んだ“今”という幸せ――時とアスリート・池江璃花子

文 神原英彰(Creative2/THE ANSWER)
写真 荒川祐史(Creative2)

 もし、目の前に“時を戻せるボタン”があったなら――。あなたは押すだろうか。押すとしたら、いつに戻すだろうか。人生、どれだけ懸命に歩んでも悔いなく生きることは難しい。それはアスリートにとっても同様。だが、池江璃花子は「後悔のない人生を生きる」を信条としている。

 新連載「時とアスリート」は、「時間」を軸にアスリートの歩みに迫っていく。キャリアの節目を彩った出会い、挫折、栄光――その瞬間を掘り下げ、それぞれの人生観や哲学を浮かび上がらせる。

 10代から日本記録を連発し、競泳界を席巻した天才スイマーが刻む時計の針は、18歳で一度止まった。急性リンパ性白血病。命の尊さに触れ、人生観は大きく変わった。25歳にして「人生の終わり」を意識しながら続ける競技人生、池江が込めるものは「希望」だった。(前後編の後編)

【前編】「時を刻むことは、生きること」 0.01秒の世界で闘う、25歳の“2つの顔”

 2019年2月、白血病を宣告された。18歳。高校卒業を目前にした冬だった。

 アジア大会6冠とMVPの達成からわずか半年。約束された未来はこの日を境に暗転した。10か月に及んだ入院。抗がん剤治療に「思ってたより、数十倍、数百倍、数千倍しんどいです」とSNSで吐露した。

 一日に何度も嘔吐し、食事も喉を通らない。

 想像を絶する闘病生活。久しぶりにプールに立った彼女の髪は短く、体は痩せ細っていた。

 池江璃花子にとって、10代にして命と向き合った日々が人生の分岐点になった。「25歳でこんなことを言うんだって、ちょっと引かれそうな気もするんですけど……」と自嘲気味に前置きをして言った。

「生きることの見方が変わった。どういうふうに水泳を終えられるか、人生を終えられるかを考えるようになったんです」

 どう水泳を終えるか。

 どう人生を終えるか。

 照れ隠しのように「なんか、私、もう人生6周目くらいなのかなと思うんです」と笑うが、若さを謳歌する20代が口にするには、あまりに重い言葉。それは、彼女が背負わされた運命の重さでもある。

名声でも成績でもない、理想の“終わり”に必要なもの

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 しかし、池江は負けなかった。

 発症から1年半後、2020年8月にレースに復帰。2016年リオに続き、コロナ禍で順延された2021年東京、2024年パリと4年に一度の大舞台を経験した。そして、パリ大会からほどなく、白血病の症状や異常が見られなくなる寛解に至った。

 自分ですら奇跡と思う経験で気づかされたことがある。理想の“終わり”を迎えるために必要なものは記録や名声じゃない。

「すべては過程なんだと思うんです」

 これまで大舞台になると、悔し泣きしてばかり。そのたびに「いつになったら、私の努力は報われるんだろう」と神様を恨んだ。しかし、どんな涙も、今は「全部、良い思い出」と思えるようになった。

 だから、自然と思う。

 いつか引退を迎える日、アスリートとして望む結果に届いていなかったとしても、きっと幸せである、と。メダルがすべてではない。ただひとつ、「あれをやっておけば……」という後悔さえなければ。

「もちろんメダルを獲りたいし、獲ったらすごいし、すごく価値があること。でも、私の中ではそれがすべてじゃない。引退する時に『水泳やっていて良かったな、楽しかったな』と思えることが一番必要なこと」

 最良の「過程」のために。今日この一日を、今この一瞬を、ひたむきに生きる。

競技人生は「夕方5時」、残された時間に満ちた希望

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 もし、時を戻せるとしたら――。

 誰がする叶わぬ空想。「迷うなあ……」と逡巡した後、紡いだ言葉に彼女らしさがあった。

「ここまで戻って来られたら、病気前ももっとできたんじゃないかと思います。もちろん当時も全力だったけど。もし病気をせずに成長できたら、世界でメダルを獲って活躍する目標も達成できたかもしれない。

 でも、病気がなかったなら今の自分はいないとも思う。すごく弱い自分も出てきたし、逆にそれと闘う自分も出てきました。それに、私は割と今が幸せなので。だから、戻さなくていいかなと思います」

 今が幸せ。だから、過去を変える必要はない。すべてを受け入れる勇気が、未来を特別なものにしてくれる。

 4度目の大舞台が待つ2028年ロサンゼルスを区切りにすると公言。競技人生の現在地を時計で表すと「夕方5時くらい」と考える。

「本当は8時くらいと言いたいけど、8時は『もう今日も終わっちゃうな』という感覚。でも、5時なら『これから夕飯は何食べよう』と考える時間もあるし、夜寝るまでにまだまだ時間があると思える気がするので」

 8時ではなく5時――日はまだ沈まない。その答えに感じるのは、残りの競技人生にかける希望。

「私は『私がやってきたことに間違いはなかった』と思えるように今を生きている。結構、良い競泳人生になるんじゃないかなって……今までも、これからもそう思っていられるんじゃないかなって思うんです」

「人ができないことをやりたい」刻み出す新たな“時”に望むこと

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 やがて競技人生の長針と短針が0時で重なると、新たな“時”を刻み出す。

 2028年は28歳になっている。メディア露出や競技の普及。多くの扉は開かれているが、求めているのは誰かの道をなぞることじゃない。

 セカンドキャリアについて「人ができないことをやりたい」と言う。

「ファッションで例えると、『この服を誰が着こなせるんだろう?』と思う服をいかに着こなすか、みたいな。そんなことが好きなので」。命と向き合ってきた人生。だからこそ、自分が生きる意味を問い続ける。

 ただ、そんなに急がなくてもいい。命を削るような「0.01秒」の世界と距離を置き、まず一番に欲しいのは、何気なくて、ささやかな幸せ。

 例えば、バッグにトレーニング用のTシャツも短パンも詰めなくていい旅行。

「『ああ、明日朝練だから9時には寝なきゃ』みたいな。時間に追われない、そういうものから解放された時間を過ごしたいです」

 時を刻むことは、生きること。

 針は二度と戻らない。未来を指し続ける。その一瞬を噛みしめながら、池江璃花子は今を歩いている。

池江璃花子の「時」を知る3つの共通質問

Q1 あなたにとって、時を刻むこととは?

 シンプルに「生きる」ってことじゃないですか。今この瞬間も当たり前に流れているけど、どこかで苦しんでいる人もいる。私やみんなが、いつどうなるか分からない。だから、生きていることは本当に素晴らしいことだし、元気じゃなかったら何もできないので。元気である幸せをふとした時にでも思い出すことはすごく大事。それは生きていないと思えないことだから。

Q2 競技をしている時間はどのような意味を持つ?

 一番、自分自身でいられる時間かな。水泳が好きと感じられる、泳いでいて気持ち良い、みんなとワイワイおしゃべりしながら楽しくやれる、そういう時間です。自分のことをかっこいいと思える唯一の時間でもあるので。

Q3 年を重ねることの価値とは?

 人生経験が増えることですかね。(インタビュー内で話した)「人生6周目くらい」とか、25歳でそういう発言をしているって恥ずかしいと思う瞬間があって(笑)。でも、それは本心に思っていることだし、人生経験を重ねたらもっと気持ちの変化もある。だから、私も年齢を重ねて、自分の人生を語れるような大きな人間になれたらなって思います。

池江璃花子

競泳選手
池江璃花子

2000年7月4日生まれ。東京都出身。兄姉の影響で3歳から水泳を始める。専門はバタフライ、自由形。中学3年で出場した2015年日本選手権で50mバタフライ優勝。翌年は個人5冠を果たし、10代で多くの国際大会に出場した。2018年アジア大会は個人6冠を達成し、大会MVPを獲得。2019年2月に急性リンパ性白血病と診断され、10か月の闘病生活を送る。2020年8月にレース復帰し、25歳になる現在は日本代表キャプテンを務める。個人で保有する日本記録は長短水路合わせて11種目(2025年9月時点)。身長171cm。

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