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「時を刻むことは、生きること」 0.01秒の世界で闘う、25歳の“2つの顔”――時とアスリート・池江璃花子 「時を刻むことは、生きること」 0.01秒の世界で闘う、25歳の“2つの顔”――時とアスリート・池江璃花子

「時を刻むことは、生きること」 0.01秒の世界で闘う、25歳の“2つの顔”――時とアスリート・池江璃花子

文 神原英彰(Creative2/THE ANSWER)
写真 荒川祐史(Creative2)

 時間は誰にとっても平等だ。だから、その刻み方次第で人生の景色は劇的に変わる。仕事や趣味に没頭する時間、友人と笑い合う時間、ただなんとなく過ぎていく時間……。限りある競技人生を生きるアスリートにとって、一秒一秒は挑戦であり、覚悟であり、積み重ねそのものだ。

 新連載「時とアスリート」は、そんな彼らに「時間」を軸に迫っていく。キャリアの節目を彩った出会い、挫折、栄光――その瞬間を掘り下げ、アスリートそれぞれの人生観や哲学を浮かび上がらせる。

「時を刻むことは、私にとって生きること」。そう語るのが、競泳の池江璃花子だ。10代から日本記録を連発した天才スイマーは18歳で白血病を宣告された。命の尊さと向き合い、再び「0.01秒」を競う世界に戻ってきた彼女が25歳の今、見つめる“時間”とは――。(前後編の前編)

 最近、家電量販店で買い物をしていると、担当した女性販売員が同い年だと知った。

 高校卒業から働き、社会人7年目。自分より、ちょっと大人に感じた。「私は働くことをしていないので。パソコンを扱うとか、お店に出るとかもないし。社会人になると差が開くなあって」。驕らず、飾らず、自らを俯瞰する。

 そんな池江璃花子は7月、25歳になった。

「中学生の頃は『25歳で結婚したい!』と思っていました」

 そう言って明るく笑いながら、「25歳って、もっと大人のイメージでしたけど、いざなってみると意外と気持ちも変わらないですね。でも、これは、みんな同じだと思うんですけど」と、年齢の変化を自然体に受け止めている。

拠点にしたオーストラリアで、土曜夜に訪れた“小さな幸せ”

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 今年9月まで拠点にしたオーストラリア。美しいビーチリゾート都市、ゴールドコーストのアパートで一人暮らしをしていた。

 月曜から土曜まで週6日の練習。

 午前5時15分に起床し、6時半から泳ぎ始める。朝練を終えると、大好きな昼寝、昼食、そして英語の勉強。午後3時半から再び練習。夕食を終え、ベッドに入るのは8時半……だが、うっかりスマホゲームに時間が溶け、寝るのが9時を回ってしまう日も。

「1日24時間では足りないです。あと2時間くらい欲しい!」。そんな日常の“小さな幸せ”は土曜の夜に訪れる。

「オフ前日なので、唯一夜更かしできる。普段は『あ、今日終わっちゃったら、朝練だから早く寝なきゃ』ってなるけど、翌日に何もない土曜の夜に『明日、何しよう』と考えながら寝るのが好きなんです」

 友人関係は「狭く、深く」。自然体でいられる親友を大切にする。日本人一人の環境で孤独を感じることもあったが、「リッキー」の愛称で気にかけてくれるチームメートがいた。

 それに“おひとり様”の時間も意外と悪くない。苦手だった部屋の整理整頓や料理にも目覚め、「私も意外と大人になったのかな」と笑う。

 清廉で、強くて、完璧――。世間が抱くイメージとは裏腹に、“人間・池江璃花子”は等身大で、親しみやすく、オフの日にはホラー映画を楽しんでいる“普通”の25歳である。

「0.01秒」の世界が強烈に教えてくれる“時間の価値”

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 だが、もうひとつの顔、“アスリート・池江璃花子”はやはり特別だ。

 15歳で日本選手権を初制覇し、18歳でアジア大会6冠、大会MVP。そして、「天才少女」の肩書きは今や「代表キャプテン」に。後輩には「テレビの中の人」と見られ、食事の席で隣になっただけで「緊張した」と言われる。

 若干の寂しさを感じるが、それは流れた時間と残した実績の裏返し。

「代表に入ったのは15歳の時。ひと回りも上でテレビの中の選手たちが目の前にいて緊張はありました。だから、今はとにかく自分から話しかける。日頃から『調子どう?』、試合前には『みんな緊張してるから。大丈夫』って」

 そんな彼女が立場を築いた競泳はタイムスポーツ。

 記録された秒数ですべてが決まる。豪快なホームランや劇的なゴールもない。


「水泳って箱の中でタッチした者勝ち。一番シンプルで見ていて分かりやすいスポーツ。だけど『0.01秒』の世界なので、爪ひとつ分で勝負が決まってしまう。楽しくもあり、残酷でもあり、シビアなスポーツだなって」

 数字は嘘をつかない。だから、時間の価値を強烈に教えてくれる。

「私が今、しゃべっている30秒の間に短い種目ならとっくに1レース終わっている。泳いでいる時はあんなに長いのに、喋っているとあっという間。泳いでいる時もこんなふうに時間が早く進んだらいいのにって思います」

「命を削ってトレーニングを…」儚くも無情な競泳の魅力

池江璃花子

写真 荒川祐史(Creative2)

 練習は、特に競泳の残酷さを際立たせる。

 合宿は陸より水の中で過ごす時間の方が長い。1度の練習で体重が2~3キロ減ることもざら。それでも、本番は数十秒から1~2分。自己ベストなんて簡単に出ない。「練習のキツさに結果が伴ってなさすぎる競技ですよね」と笑う。

「命を削ってトレーニングをしている感覚」と表現する極限の境地にいる。なのに、努力には平気で裏切られる。だからこそ、限られた時間をどう刻むのか、自問し続ける。それが、儚くも無情な競泳というスポーツの魅力でもある。

 もし何かの間違いで、ある日突然、プールがこの世からなくなったら――。

 そんな空想がよぎるほど、プレッシャーに潰されそうになる。それでも、25歳の今も挑戦し続けられる理由は区切りを決めているから。

「2028年のロサンゼルスが集大成と言ってきた。2032年までやるとなったら、この2、3年は休んでいたかもしれない。それくらいトレーニングを続けるのは厳しい。30歳を超えても続ける自信や強い気持ちを今はなかなか持てない」

 その言葉からは、今という一瞬にすべてをかける覚悟が滲んでいた。

 全力で駆け抜けた20年以上の競泳人生。ただ、18歳の冬、時計の針が一度だけ止まったことがあった。

「あの経験がなかったら、今の自分はいない」

 急性リンパ性白血病。その“時”が、池江璃花子の生き方を変えた。

(後編へ続く)

池江璃花子

競泳選手
池江璃花子

2000年7月4日生まれ。東京都出身。兄姉の影響で3歳から水泳を始める。専門はバタフライ、自由形。中学3年で出場した2015年日本選手権で50mバタフライ優勝。翌年は個人5冠を果たし、10代で多くの国際大会に出場した。2018年アジア大会は個人6冠を達成し、大会MVPを獲得。2019年2月に急性リンパ性白血病と診断され、10か月の闘病生活を送る。2020年8月にレース復帰し、25歳になる現在は日本代表キャプテンを務める。個人で保有する日本記録は長短水路合わせて11種目(2025年9月時点)。身長171cm。

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