文 折山淑美
写真 落合直哉
ヘアメイク Ryo
スタイリスト 田村和之
大学・実業団で将来を嘱望された陸上選手のひとりだった、俳優の和田正人。しかし、実業団の廃部を機に、早々に競技人生に見切りをつけた。そして、「役者は死ぬまでできる」という天職に巡り合うこととなる。陸上選手から俳優という数奇なジョブチェンジに対して、和田は何を思うのだろうか。
そして、子どもの頃に陸上に興味を持つきっかけとなった大会である世界陸上についても語ってもらった。和田の印象に残った大会や、東京2025世界陸上への展望、オフィシャルタイマーを務める時の会社・セイコーの印象についても聞いた。
不完全燃焼だった和田にワクワクをもたらした俳優の道

所属先の実業団の廃部という絶望的な状況も、和田は次なる道にワクワク感を覚えたという
写真 落合直哉
全日本実業団対抗駅伝(ニューイヤー駅伝)では、前身の日本電気時代の1967年の初出場に始まり、2000年には3位になったNEC。2001年、02年は6位だったが03年は4位になり、選手たちの次へ向けた気持ちも盛り上がっていた。それだけにNECの突然の廃部は、選手やスタッフにとっては寝耳に水だった。
入社してからケガで練習もできない時間を過ごしていた頃、「練習できない選手は定時で出社する」というチームの規則で会社に出ていた和田は、競技人生についていろいろ考えたという。
「日の丸をつけるような選手たちは、故障の間も『どうしたらケガをしない体に作れるか』など、陸上のことをずっと考えているかもしれません。一方、僕は『陸上をやっていなかったら何をやっていたかな』とか『辞めてから何をするのか』などを考えていました。青春時代を謳歌せずにひたすら練習して人生を陸上に捧げても、30歳を過ぎて体力に限界がくればそれも奪われる。
そういう現実にすごく絶望を感じ、『これだけ苦しんでいるのに、陸上を続けることで何が残るんだろう』と考えるようになりました。会社員として企業に残るか、地元に帰って教師になるか――そのどちらも嫌ではないけど競技者として中途半端に終わって、仕方なく学校の先生になるのかと考えると、すごくもやもやして……。『不完全燃焼だな、俺の人生』と思ってしまったんです」
そんな時にフッと頭を過ったのが、東京に出てきた頃に芸能事務所の人に声をかけられて名刺を渡されたり、街中で雑誌の写真撮影などで声をかけられたりした芸能界のスカウトの存在だった。「もし東京で生まれていたら、そういう世界も当たり前のように目指して良かったのかな」「今からではそんな世界は無理だろうが、次の人生あったらやってみたいな」などと、何となく考えていた。そんな陸上以外の道への思いも心の底にあった中での廃部だった。
「廃部になるかもしれないという噂がちらほら入ってきても、『ニューイヤー駅伝で4位だし、それはないはずだ』と思っていました。でもある日の朝練の時に『午後の練習は各自ジョグで、終わってからミーティングをするから集合してください』と言われました。その場所もいつもミーティングをする食堂ではなかったので、先輩たちも『これは本当に廃部かもしれない』という話になり、会社に行ってもそのことで頭がいっぱいになっていましたね。午後の練習はいつものように、ひとりで90分ジョグに行って走りながら『廃部と言われたらどうしよう』と考えていました……。
僕は当時24歳だったけど、自分がケガをして大会に出られなかった経験はあっても、第三者の都合で頑張っているものを奪われる経験は一度もありませんでした。『でもこれで廃部になったら走ることを奪われる。この出来事は何なんだろう』と思った時に、なぜか分からないんですが、それをポジティブにとらえたんですよ。
『これは陸上を辞めて別のことやれと言われているんだ』と思ったんですよね。それで実際にミーティングで廃部と言われた瞬間に、みんなが涙を流している中で『芸能界を目指そう。新しい人生が始まる』とワクワクしていました(笑)」
死ぬまでチャレンジし続けられる仕事が俳優だった

陸上をすっぱりと辞めて俳優の道に進んだ和田だが、驚くことにそこまで苦労を味わうことはなかったという
写真 落合直哉
所属先の廃部に直面しても次なる道に向けてワクワクしていた和田だったが、日の丸を背負って日本代表になるための資質とは何かを、強烈に印象づけられた思い出もあった。高校3年だった97年に地元高知で創部された「くろしお通信」で力をつけて世界陸上や世界クロカンの代表にもなった、同い年の大森輝和や大島健太の存在だった。
「ふたりとは中学・高校時代も同じ大会に出るなど、仲が良かったんですよ。大学時代も帰省した時には一緒に飲みに行ったり、合宿もしたりしていましたけど、彼らを見て『こういう奴らが日の丸を背負えるんだ』と思いましたね。超ビッグマウスでメンタルも強い。だからある意味あのふたりに、『俺は多分、日の丸を背負える選手ではない』と引導を渡されたみたいな感じです。競技で日の丸を目指すのは、階段を3段、4段飛ばしていける奴だけど、僕が同じことをやったら途中で転がり落ちてまた1段目からやり直さなければいけない。
僕はどちらかといえば1段1段じっくり上っていくタイプだから、高みを目指すことも難しい。『それなら僕は、死ぬまでチャレンジできるものに挑みたい』と思ったのが、役者を選んだ理由です。何かの映画や俳優の誰かに憧れたのではなく、そういう生き方を選びたいというだけの理由でこの仕事やっている感じです」
陸上を辞めた1年後に「ワタナベエンターテイメント」に入り、その半年後には「ミュージカル・テニスの王子様」でデビューするなど順調な俳優生活を歩むことになった和田。俳優として駆け出しの頃は、仕事に夢中で陸上を見ることもあまりなかった。しかし、2017年のテレビドラマ「陸王」の出演で、監修をした青学大の原晋監督と面識を得た頃から、駅伝のゲスト解説などの仕事もするようになった。「それから陸上の仕事も真剣に取り組もうとやり始め、陸上関係者との交流も徐々に増えてきました」という。
「結局、人生は選択の連続ですけど、陸上というひとつの人生でそれを一通り経験しました。俳優になった時にその判断軸を活用したらある程度正解の選択肢を自然と導けたみたいで。わりと早い段階でテレビに出演でき、それなりの結果を積み上げられた要因ではないかなと思います。それに、ケガをして走れなかった時の苦しみや、練習のしんどさと比べれば大抵は余裕を持てるというか。このインタビューの次の日も朝3時に起きて御殿場で仕事をして、東京に戻って舞台2公演という地獄みたいなスケジュールですけど、『あの時の合宿に比べたら楽か』などと思えて頑張れるのは、陸上やっていたお陰だなと思います」
世界陸上の思い出と日の丸を背負う選手へのリスペクト

大学時代にともに活躍した同世代の選手たちが世界陸上で躍動する姿に、和田も心を躍らせた
写真 落合直哉
そんな和田にとって世界陸上の強烈な思い出は、幼い頃に見た1991年東京大会だった。当時の大会のヒーローは100mを世界新記録で制した超人カール・ルイス。「小学校5~6年生くらいでしたけど、祖父母と兄貴の4人で旅行に行った時に旅館のテレビでたまたま見たのが走り幅跳びの決勝だったと思います。あの無敵のルイスが、驚異的な世界新を跳んだマイク・パウエルに敗れるという信じられない展開でしたね。そこで初めて『陸上ってすげえ面白い』と思ったんです」と振り返る。
「世界陸上といえばやっぱり特別感はありますね。2003年大会の男子200mの末續慎吾選手の銅メダル獲得や、05年大会の為末大選手の400mハードルの銅メダル。それに日大の同期でやり投げの村上幸史の09年の銅メダルも鮮明に覚えています。大学時代にインカレなどでしのぎを削っていた、よく知っている同世代の選手たちがどんどんメダルを獲る姿を、興奮しながらテレビで見ていました」
続けて和田は、興奮気味に陸上の生観戦での感動にも触れた。
「2001年の日本インカレで、その村上がやり投げで日本人3人目の80m台を投げたのを生で見ていました。あの時は国立競技場で僕たちはバックスタンドに陣取っていたので、やりがとんでもないところまで飛んでいったのは分かったんですけど、記録までは分からなくて。
でも、ホームスタンドを向いていた記録表示板が回転し出すと、それにつれて記録が見えた客席では『ウワーッ』という歓声が沸きました。それがウェーブのように会場を回ってきて。80m59という数字を見た瞬間に僕たちも『ブワーッ』となったし、すごく記憶に残っています。学生で80m投げる選手なんかいなかったから本当に衝撃でした。『こういう奴が日の丸背負うんだな』と思ったし、その後に世界陸上でも活躍したので、『すごいな』と思いました」
Team Seikoの田中希実の活躍にも期待を込める

これまで数多くの国際大会で活躍してきた田中に対しては、東京2025世界陸上こそが飛躍の大会になると予想する
写真 フォート・キシモト
俳優として演技でいくら感動を生み出しても、スポーツのリアルな感動には絶対に敵わないことは分かっているという和田。だからこそ感動を探しに行きたいし、その特別な瞬間を味わいたい。そう話す和田は、東京2025世界陸上への期待をこう話す。
「個人的には日大の後輩たちを応援していますが、女子1500mと5000mに出る田中希実選手は期待しています。21年東京、24年パリと世界の大舞台に出場しての世界陸上ですが、特にパリでは1500mで3分台を出したけどあまり納得できてなかったと思うんですよ。だから今回が本当のターゲットにしている大会だと勝手に思っているんです。
中でも期待する5000mは、1500mで決勝まで行けば3本やった後になるので本当に難しいと思うけど、ポジション取りとレース運びをうまくやれば前回の8位以上の入賞も行けると思っているのですごく楽しみです。後は男子3000m障害の三浦龍司選手も、僕の中ではダイヤモンドリーグでの日本記録更新(8分03秒43)で期待がだいぶ上がりました。短距離も含めてハードル種目は、肉体だけの勝負ではなく技術も加わるのでアジア人でも上位を狙えるパーセンテージは上がってきますよね。
特にダイヤモンドリーグのレースは記録も狙いながら前半は抑える冷静な走りをして、日本記録更新と2位という順位も勝ち取ったことはすごいです。大学時代の駅伝を見ていてもレース運びが天才的に上手いと思っていたし、あんなレースをしている日本人を見たことがなかったので楽しみでしかないですね」
セイコーの印象は愛用した時計「スーパーランナーズ」

かつての自分が陸上で味わった感動を、子どもたちにも見せることはできるのか。世界陸上の開幕が待ちきれない和田だった
写真 落合直哉
子どもたちにもあの感動を見せたいから、東京2025世界陸上の子ども無料招待にも応募したと笑う和田。陸上関係の仕事も「自分が俳優だという立場をしっかり意識したうえで臨みたい」と意欲を持つ。しかし、それも「親のため」という意味もあると苦笑する。
「陸上の仕事は親が本当に喜んでくれるんです。中学の時からずっと、僕が走るところを見るのが趣味みたいなところもあって、陸上を辞める時は本当に心配してくれて悲しい顔をしていたのを今でも覚えています。今はテレビや映画の仕事ももちろん楽しんでくれているけど、駅伝の仕事とかになるとそれ以上にすごく嬉しいみたいなので。そういう形で親にも恩返ししたいなと思っているんです」
34年前に、幼い脳裏に陸上の面白さを強烈に印象づけてくれた世界陸上東京大会。その感動の大舞台を再び。今度は子どもたちと目撃できる嬉しさでワクワクしている。そして、最後にセイコーについての印象も語ってくれた。
「セイコーと言えば、やっぱり『スーパーランナーズ』です!僕も愛用していました。シンプルで、軽い!極限にまで無駄を省いたつくりがランナー視点で感激したことを今でも忘れません。大きくて見やすい数字やボタンの位置まで……本当にランナーのための時計だと思います。東京2025世界陸上もオフィシャルタイマーを務めるので、ぜひ大会を盛り上げてほしいです」