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俳優・和田正人が語る陸上選手としての過去。悲喜こもごもな競技人生

文 折山淑美
写真 落合直哉
ヘアメイク Ryo
スタイリスト 田村和之

名バイプレーヤーとして、テレビや映画、舞台などで幅広く活躍中の俳優・和田正人。表現者として演技力に定評のある和田だが、他の俳優たちとは異なるユニークなキャリアを歩んできたことをご存知だろうか。実は箱根駅伝に出場経験があり、実業団まで競技を続けてきた元陸上選手なのだ。そうした経歴を活かして、現在では箱根駅伝のラジオ放送ゲスト解説や全日本大学駅伝の応援ナビゲーターも務めている。

東京2025世界陸上の開幕に向けて世間の陸上熱が高まっているタイミングで、和田は陸上競技について何を思うのか。これまで歩んできた陸上キャリアを振り返ってもらいつつ、普段は語らない競技者としての過去に迫った。

陸上ではなく、ソフトボールがメインだった中学時代

和田正人さん 画像

和田が陸上を始めたのは中学時代。当時はソフトボール部との掛け持ちで駅伝部として活動した

写真 落合直哉

和田は大学2年時に出雲駅伝、全日本大学駅伝、箱根駅伝の大学三大駅伝に出場。3年では出雲と全日本出場でともに6区で区間5位と4位、4年では箱根駅伝のみだったが9区区間5位という立派な成績を残した。そんな彼が陸上を始めたのは中学生からだった。

「中学の時はソフトボール部所属だったけど、掛け持ちで駅伝部もやっていて……。寄せ集めの選手で秋の駅伝大会だけに出場する部でしたが、ちょっと足が速かったというのもあって、1年目の県中学駅伝で1年生エースが走る3kmの2区で区間賞を獲ったんです。寄せ集めチームのひとりなのに区間賞だったから『陸上のほうが得意なんだな』となったけど、当時はソフトボールをメインでやりつつ駅伝もやるという感じでした」

普通に陸上に専念する中学生とは異なり、春からのトラックシーズンにはまったく出場せず秋の駅伝だけを走る競技生活。だが高知県内では強豪校のひとつだった高知工業高の陸上部の野中三徳監督に勧誘され、高校からは陸上に専念するようになった。

「高校ではけっこうケガが多くて、5000mも全国高校100傑には入れない14分42秒くらいがベスト。インターハイも四国大会敗退で全国大会には行けず……すごく活躍していた選手ではなかったですね」

それでも高校2年ではひろしま国体に出場し、少年A5000m第2組14分58秒30で13位。全国高校駅伝も区間30位台ではあったが、2年ではエース区間の1区を走り、3年では4区と全国の大舞台も経験した。

大学で才能が開花するも、ケガとの戦いが続く

和田正人さん 画像

大学で実力の片鱗を見せるようになった和田だったが、同時に要所でケガを繰り返した

写真 落合直哉

高校で頭角を現し始めた和田は、大学では日大の門を叩く。その時代は、順大と駒大が熾烈な“紫紺対決”を繰り広げていた。同学年でクインテッドと称される3000m障害前日本記録保持者の岩水嘉孝や、奥田真一郎、入船満、野口英盛、坂井隆則を擁する順大と、揖斐祐治や神谷伸行、高橋正仁の他、1学年下にも有力選手がそろう駒大が、覇権争いを懸けてしのぎを削っていた。

「当時、日大のコーチだった西弘美さんが、野中先生とは大学時代の先輩・後輩の関係でした。野中先生が『大学に行ったら絶対に伸びるから』と推薦してくれて、それで西さんが走っているところを見に来てくれました。おそらく先生は、僕を後継者にしたくて自分と同じ日大で、教職が取れる体育学科に行かせたのだと思います(笑)。

高校時代は全国区でもなかったので、日大入学当初は同期の中でも実力的には下でした。練習もきつかったけど、徐々に力をつけて年末には同期の中でも上位に位置していました。箱根に関しても、当時は1年生エースが起用される3区を走る予定でしたけど、12月合宿を終えた後にケガをして不出場に……。本当に僕の陸上人生はケガとの戦いでした」

2年では大学三大駅伝のすべてを走った。その中でも全日本はエース区間の2区を任されたが、1区13位と出遅れた状況から盛り返せず区間17位の走り。「順位こそ落としてないが流れをまったく作れなかった」と、今でも悔いる走りになった。

「3年生の時に、高校駅伝などで1年の時から活躍していた西脇工高の藤井周一が日大に入ってきました。彼とは良いライバル関係になれて、10000mでもようやく28分台で走れました。当時はまだ学生で28分台はそんなにいなかったので、そこで自分もようやく『他校のエースクラスと戦っていける』と自信がついた感じです。出雲と全日本は区間5位と4位でした。でも箱根の前にまたケガをして走れず……。4年目も夏合宿前にケガをしたので、出雲と全日本は回避。なんとか箱根だけに間に合わせたという感じでした」

会心のレースがいつもケガ明けだった理由

和田正人さん 画像

良い記録が出たのはすべてケガ明けだったとおどける和田。ストイックに競技に向き合っていたからこそケガは付き物だった

写真 落合直哉

大学時代の和田が掲載されている駅伝増刊のプロフィールには、「大きなストライド走法の選手」と書かれていたように、バネを使って走るタイプだった。

「体力的にも練習を積み重ねられるタイプではなかったので適度に抑えたりしなければいけませんでした。そのコントロールは、当時の自分には難しかったです。練習もかなり追い込んでやっていたので、疲労が蓄積してケガを繰り返しました」とシンスプリント(ランニングやジャンプなどの繰り返し動作ですねの骨の内側に炎症と痛みが生じるスポーツ障害)や疲労骨折、足底など膝から下を痛めることが多かった。しかし、ケガ明けは一気に調子が上がったともいう。

「疲労がまったく溜まっていない状態なので、良い記録で走っている時はすべてケガ上がりでした。だから最後の箱根もめちゃくちゃ調子が良かったです。ただ、夏に走り込んでいなかったので、残り5kmのところで一気に低血糖になってしまい、そこから16分40秒くらいかかりました。そこまでは1時間9分30秒を切るくらいのペースで行っていたから区間賞も獲れていたかもしれなかっただけに――本当に悔やまれるレースでした」

学生最後のレースだった3月の京都シティハーフマラソンは、1時間02分57秒で6位と会心のレースだったと話す和田。大学4年間の競技生活を「やり尽くしたということはないけど、力通りかなとは感じた」と冷静に当時の自分を評価した。

「大学では肉体的な部分で成長して急に強くなりましたけど、やっぱり精神的な部分が追いついてなかったですね。各校のエースクラスと戦ううえでのメンタルを比較すると、高校時代からエースを張っているような選手たちはやっぱり違いましたね。西脇工高などの名門校から来ている選手たちは、メンタルの強さが本当にすごかったです。2学年下の藤井もそうでした。だから僕は当時、なんとか誤魔化しながら頑張っていたという感じだったと思います」

反対を押し切って決めた実業団の進路――そして廃部へ

和田正人さん 画像

反対を押し切り実業団への道を進んだ和田。これからというタイミングで囁かれたのが廃部の噂だった

写真 落合直哉

そんな競技生活の中、自分でも会心だと思えたレースは駅伝ではなくトラックだった。4年の関東インカレでは藤井とともに5000mと10000mの2種目に出場し、7位と5位でともに入賞を果たした。そして、そのレースが、実業団でも競技を続けるキッカケにもなった。

「あの時の10000mは29分07秒24と記録的にはそれほどでもなかったけど、レースは山梨学院大の留学生ふたりがハイペースで引っ張って、それに藤井たちがついていく展開でした。僕はわりと早い段階で『ついていくのは止めよう』と思って先頭との差を開けて走ったけど、そこから粘って前から離れて落ちてくる選手をどんどん拾って順位を上げていくレースだったんです。

そのレースを当時のNECの味澤善朗監督が見てくれました。僕が28分台で走った3年の時のレースも見ていて、『こういう選手がいるんだ』とそこから少し気にかけてくれていたようです。中盤に苦しくなってから粘って上がっていったレース内容を評価してくれたみたいで、NECに勧誘してくれました」

しかし、高校時代の恩師である野中監督からは、「お前は実業団行っても、練習を積めるタイプではないから通用しない」と猛反対された。和田自身もそれは分かっていたが、挑戦してみたいという気持ちのほうが強かった。周囲の反対を何とか押し切り、「分かった。やれるだけやって、もう無理だと思ったらすぐ帰ってこい」と言われてNECに入社した。

「でも案の定、NECの1年目の3分の2くらいは、ケガをして走れなかったですね。まったく納得できない走りがずっと続きました。ニューイヤー駅伝の前くらいにケガが治って合宿などで少しずつ走るようになってきた感じです。それで2月の丸亀ハーフに出たら、1時間02分24秒(同年日本ランキング17位)で9位になれました。しかもニューイヤーに出ていた選手たちにも勝ったので、『ケガなく普通にやれれば実業団でもやれるな』と確信しました」

しかし、その矢先に再びケガをする。そこで落ち込んだ気持ちを何とか立て直し、「ケガを治して陸上を頑張ろう」と考えるようになったタイミングで、部内では「廃部」という噂が囁かれるようになった。

【後編】俳優・和田正人が待ち望む東京2025世界陸上!役者への転身に思うこと――

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