文 折山淑美
写真 Aflo Sport
5月18日に東京・国立競技場で行われたセイコーゴールデングランプリ陸上2025(以降GGP)。「序章、世界。」と銘打たれた同大会は、9月に同じく国立競技場で開催される東京2025世界陸上の前哨戦とも言えるだろう。GGPは日本で唯一、ワールドアスレティックス(WA)が主催するコンチネンタルツアーゴールドの国際大会であり、ワールドランキングにおいて日本選手権より上のAカテゴリーに位置づけられている。そんな世界への扉を開く序章の大会に、東京2025世界陸上への出場を目指すトップアスリートたちが、9月の大本番を前に日本陸上の聖地に集結した。
国内最高峰の陸上大会であるGGPで、トップアスリートたちに真っ向勝負を挑んだのが、田中希実、豊田兼、デーデー ブルーノのTeam Seikoの3選手だった。東京2025世界陸上の前哨戦で、3選手は何を思い、どんなビジョンを描き試合に臨んだのか。Team Seikoメンバーのインサイトに迫りつつ、大会の様子をレポートする。
異例のペースメーカー後のレースで田中が直面した誤算と収穫

本命の1500mのレース1時間40分前に、3000mのペースメーカーを務めた田中。異例の状況の中で何を思ったのか
写真 Aflo Sport
女子1500mでGGPでの2年ぶりの優勝を狙った田中希実は最後まで諦めない粘りのレースをしたが、スタートから攻めのレースをしたオーストラリア人選手を捕えきれず4秒98差の4分06秒08の2位でフィニッシュした。
特筆すべきは、1時間40分前に女子3000mのペースメーカーとして2000mまで走った後の本番という異例のスケジュールだったことだ。2024年GGPの1500mで1位と2位になったオーストラリアの2選手が、その後の5000mのペースメーカーを務める姿を目の当たりにしたことがきっかけとなった今回の挑戦。しかし、今大会は昨年のスケジュールとは異なり、出場を決めた後に、1500mの前に3000mがあるタイムテーブルが発表されたことが誤算だった。それでも田中は「ペースメーカーを断ったら迷惑がかかる。1500mを辞退しようかと迷った。」と素直な心境を語りつつ、「いまある環境の中でベストを考え抜くことが大事」とも語り、レース間隔が調整されたことも考慮し、両レース走ることを決断した。
「ペースメーカーといっても、2000mまでのペース自体は世界のレベルで考えればジョギングの延長線上で走れないといけないぐらいのタイム。世界の選手はそのペースで10000mも走れてしまうので、そこを言い訳にするより、むしろそれをモチベーションにするくらいの気持ちで今日は1500mを走りたかった。」
そう話す田中には、もうひとつ誤算があった。1500mにペースメーカーがつくことを、知ったのが前日だったことだ。
「それが私の思っていたよりもハイペースで。800mの選手なので速く入ってしまうだろうなと思っていたから、1周目の61秒通過は想定通りでした。ただ、殻を破りたいと思う日本人選手がつくかもしれないとは思ったが、自分だけがペースメーカーにつくという展開は避けたいという思いはあった。」

厳しい展開になっても自分の可能性を信じてポジティブな走りに徹することができた点は、田中にとって今大会の収穫となったようだ
写真 Aflo Sport
田中の見立て通り、日本人選手がハイペースで引っ張った1周目。オーストラリア勢2名の後ろにつけた田中は、200mを過ぎてから強豪のオーストラリア人選手が前について差を広げても対応しなかった。2周目に入ってもう1人のオーストラリア人選手を抜いて前に出たが、先頭との差は700m通過時点で約4秒になった。
「自分が第2集団を引っぱる展開になったのは想定外だったが、どんな展開でも気持ちを折らないことをテーマに据えていた。タイムやレース内容の目標を立てて臨むようなレースにはならないと思っていたが、自分の可能性を最後まで信じて貫くという内的な気持ちの部分はテーマを貫けたかなと思う。追いつきたいという気持ちで走ったが追いつけなかったのは今の地力の部分。『これだけ差が開いたら無理だ』というネガティブな走りではなく、自分の中で納得できるポジティブな走りはできた。」
最後は粘る後続を突き放して2位でフィニッシュ。優勝したオーストラリア人選手に対しては「この時期から4分切りを狙うようなレースだったので、その姿勢はもっと見習っていかないといけない。」とリスペクトの言葉も口にした。

東京2025世界陸上でトップ選手たちと対等に渡り合うためにも、地力のアップを果たすことを宣言した田中
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2025年は1月末から2月中旬にかけて室内で5レースを走り、3月には世界室内陸上にも出場。4月からは3000mと5000mを中1日で2レースを走るグランドスラム2大会など7レースを走り、準高地の御岳合宿を経てのGGP出場だった。
この後もグランドスラムやダイヤモンドリーグを転戦する間には合宿も行う予定。東京2025世界陸上の日本代表選考会となる7月の日本選手権に向けては、そのハードスケジュールの中で「地力と勝負力をともにパワーアップして帰国したい。」と意欲を見せている。
そして、1500mと5000mで挑戦する予定の東京2025世界陸上に向けてはこう話す。
「両種目とも予選は流れ次第でスローペースになるが、その中でもハイペースで引っ張っていける地力がついていれば日本記録が狙える走りをしたいし、勝負力に自信を持てるようになっていれば、あえて自分では引かず、どんな展開でも上位争いに絡めるようにしたい。国立競技場はいいイメージばかりではないが、国際大会ならではの自分の奥底から湧いてくるような闘志が感じられたら、スタートラインにつく時には2021年の東京大会を彷彿させるようなワクワク感を味わえるのではないかと自分自身に期待している。」
これまで何度も跳ね返されてきた世界の壁を乗り越えるための地力のアップ。田中は今それを、1つひとつのレースで着実に積み重ねようとしている。
目標の47秒台を逃すも期待感を高める走りを見せた豊田

GGP連覇、参加標準記録突破の両方を果たせなかったものの、豊田の走りは期待感を抱かせてくれた
写真 Aflo Sport
2024年夏のケガ以降、レースから遠ざかっていたものの、4月13日の吉岡隆徳記念男子300mを3位で復帰し、26日には初となるダイヤモンドリーグ参戦となった男子300mハードル(H)で3位と世界で戦える力を示していた豊田。今季2レース目となったGGPの男子400mHは、前半から飛ばす積極的なレースを展開しながらも、終盤に疲れが出て1位のアメリカ人選手に0秒05遅れる48秒55の2位だった。目標にしていた大会連覇と世界陸上参加標準記録(48秒50)突破をともに逃す悔しい結果になった。
「1週間前に木南記念を欠場し、GGPに照準を合わせていたので、行けると思っていた。」と悔しがる豊田だが、期待感を抱かせる走りはした。
ターゲットにしていたのは昨年の日本選手権で出した47秒99(日本歴代3位)に続く、2度目の47秒台。長身を活かして7台目まではハードル間を13歩でいくストライドの大きい走り。「7台目までは想定通りで、スピードも47秒台を出した時とほぼ同じ水準で走れていたという印象だった。」と振り返る。

400mHに専念した練習などの疲労感はあったという豊田。コンディション調整も世界陸上本番に向けた課題となる
写真 Aflo Sport
写真 フォート・キシモト
しかし、ハードル間を15歩に切り替えて跳ぶ9台目のハードルは踏み切りが若干届かない感じになり、少し減速をする跳び方になってしまった。そのため、最後は前半のスピードを維持しきれず、目標に届かなかった。
これまでは400mHと110mHの二刀流だった豊田だが、2025年は400mHに絞っていることもあり、練習内容も変化している。
「より400mHの技術練習や長い距離の練習が増えたので、集中してヨンパー(400mH)に取り組めているのはいい点だと思う。でも一方で、これまでと少し違うやり方になったので、少し疲労も溜まっているのかなと……。スピードを出したロングの練習が多いので、うまく疲労を抜いたり、休養の調整もしたりしなければいけないなと実感している。」
上手く体の状態を調整してきたと感じていたが、今回はラストで疲労感もあった。「5月3日の静岡国際で400mHを走った後、休まずに練習量を積んだので、それもまた影響しているのかもしれない。」と分析する。

目標は東京2025世界陸上での決勝進出だと明言している豊田。世界的な選手へと飛躍を遂げるうえでの第一歩を踏み出せるか
写真 Aflo Sport
ただ、前半の走りをしっかり作れた手応えは大きい。出場を予定していた5月27日からのアジア選手権は「腰背部に違和感が出た」と欠場したが、日本選手権を通過点と捉え、視線の先を9月の東京2025世界陸上に定める意識は変わらない。
「2024年のパリ大会はケガの影響もあって走りきることで精一杯だった。その時に掲げていた決勝進出という目標を、東京2025世界陸上でも再び掲げている。それは、いずれ国際大会でメダルを獲得するための第一歩だと信じているが、世界陸上で決勝に残るためには47秒台が必要。そして47秒89という日本記録も視野に入れている。」
400mHのレコードホルダーは、世界陸上で2回銅メダルを獲得している。豊田はそれを超えるための第一歩を、東京2025世界陸上の決勝進出に定めている。
調子が上向きのデーデー「東京2025世界陸上に出場したい」

自己ベスト更新後1週間後のレースのため自信があったというデーデー。しかし、結果を意識するあまり空回りした部分もあった
写真 Aflo Sport
GGPの男子100mは、招待選手を含めた決勝進出4名が先に確定し、2組で行われるチャレンジレースのタイム上位5名が決勝に進むシステムで行われた。その中でデーデー ブルーノは、チャレンジレース第2組で10秒31の7位という結果に終わり、決勝進出を果たせなかった。
GGPの1週間前に開催された木南記念では、追い風1.1mの条件で自己ベストを0秒04塗り替える10秒14を叩き出したデーデー。「走りがようやくハマってきた!」とGGPへの手応えを口にしていた。だが、本番はスタートから先行されて巻き返せない展開。
「調子も良かっただけに『勝負したい』という気持ちが強くなりすぎてしまい、むしろ空回りしてしまった。結果を出して世界ランキングを上げておきたいという強い気持ちがあり、それが前に出すぎてレースを冷静に運ぶことができなかった。」と振り返る。

デーデー本人も調子の良さを実感しているだけに、是が非でも東京2025世界陸上への出場権を勝ち取りたい
写真 Aflo Sport
ただ、「木南の10秒14は『出せる』と思っていたタイムだったので、正直、喜ぶと言うより『この感じならもっと速く走れるよな』という感覚。シーズン序盤はトップスピードに入るまでの加速の仕方やそこからの体の使い方が上手くつながっていない部分がずっとあったが、木南記念の前にまた初心に戻って基礎的な動きなどを取り入れたことで、自分の思う動きとイメージが重なってきた。」と手応えを感じている。
東京2025世界陸上への思いは人一倍強い。21年は日本選手権で2位になり、東京大会の男子4×100mリレーの日本代表に選出された。しかし、大会出場は果たせなかった。「大会の選手紹介で『東京大会代表』とアナウンスされても、『出場はしてないんだよな』と思う自分がいて。何度も劣等感に苛まれる複雑な気持ちもあり、納得できないままその紹介を聞いてきた数年だった」という。
だからこそ同じ競技場で行われる東京2025世界陸上には、今度こそ出場したい。男子100mは相次ぐ若手の台頭でさらに競争が激化しているが、その中でも「日本選手権を勝ち切りたい!」という思いがGGPを通してさらに強くなったデーデーだった。

陸上競技・中距離選手
田中希実
1999年9月4日生まれの兵庫県出身。幼少期は北海道マラソンで2度優勝した実績のある母親・千洋さんの練習を見て育ち、大学時代は父親の健智さんがコーチを務めるクラブチームで練習を重ねた。世界陸上実施種目の女子1000m、5000mを筆頭に11もの日本記録を保持している。世界陸上ブダペスト23の女子5000mで日本勢として26年ぶりの入賞を果たした。

陸上短距離選手
豊田兼
身長195cmの恵まれた体格を活かし、400m/110mH/400mHの3種目をこなすマルチハードラー。2023年8月に中国で行われた第31回FISUワールドユニバーシティゲームズの男子110mHで学生世界一に輝き、同年10月のアスレチックスチャレンジカップでは日本歴代6位となる48秒47を記録し、世界の大舞台の標準記録を突破した。陸上競技界の未来を担うホープ。

陸上短距離選手
デーデー ブルーノ
高校2年生から陸上競技を始める。2021年、大学4年生時の日本学生陸上競技個人選手権で優勝。さらに、同年の日本陸上競技選手権大会では100m、200mともに自己ベストを記録して準優勝した陸上界期待の若きホープ。2021年東京大会の4×100mリレーの日本代表にも選出された。自己ベストは10秒14。