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大橋悠依が語る競泳人生の感情曲線とセカンドキャリアでの挑戦 大橋悠依が語る競泳人生の感情曲線とセカンドキャリアでの挑戦

大橋悠依が語る競泳人生の感情曲線とセカンドキャリアでの挑戦

取材・文 大西マリコ
写真 落合直哉
ヘアメイク 長谷川真美

「大学2年の時に人生のどん底を経験しました。原因不明の不調に陥ってしまい――。」

そう語るのは、2021年に東京で行われた世界の大舞台の競泳女子個人メドレーで200m・400mの2冠を達成した大橋悠依さんだ。人生山あり谷ありという言葉があるが、それは世界を極めたトップアスリートにおいても例外ではない。大橋さんは、その栄光の競泳人生において酸いも甘いも多くのことを経験してきた。

2024年秋に現役を退き、現在はイトマンスイミングスクール特別コーチに就任した傍ら、大学院でスポーツ栄養学を学ぶ。Team Seikoにおいても、4月からセイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)として次世代育成活動にも精力的に取り組んでいる。そんな大橋さんに競泳人生の「これまで」と「これから」について語ってもらった。起伏に富んだ競泳人生と現役引退後のセカンドキャリアで成し遂げたいこととは。

大橋悠依さんのモチベーショングラフ

「個人メドレーの女王」と呼ばれた大橋さんだが、その競泳人生は常に順風満帆というわけではなかった

中学時代ー才能が芽生え始めた小さな上昇期ー

大橋さんの競泳人生において意外なのは、中学生時代はさほど水泳への情熱を抱いていなかった点だ。

「小学生から中学生の頃は、水泳に対して特別なやる気があったわけではなく、単に得意だから続けているという感じでした。大会に出ても決勝に残るような選手ではありませんでした。」

しかし、そんな本人のモチベーションとは裏腹に身体の成長と技術が融合し始め、結果に表れ出す。中学生の終盤に、グラフは上昇カーブを描き始める。

「中学3年になると、全中(全国中学校水泳競技大会)でメダルが取れたり、JO(ジュニアオリンピック)でも優勝できたりするなど結果がついてきました。自分の中で選手として速くなったことを実感できた時期です!」

高校2年ー恩師・平井コーチとの運命の出会いー

大橋さん 画像

恩師・平井コーチとの出会いについて語る大橋さん。まさに人生を変える出会いとなった

写真 落合直哉

高校1年でやや落ち込んだ時期を経たが、高校2年時に競泳人生の最大の転機を迎える。ジュニアパンパシフィック選手権の日本代表に選ばれ、競泳界の名将・平井伯昌コーチとの出会いが待っていた。

「高2でジュニアパンパシフィックの代表に選ばれた際に、平井先生と初めて会いました。これが人生のターニングポイントですね。」

当時のことを振り返り、「平井先生から『大学はどこに行くか考えている?』と聞かれて、『全然考えてないですし、水泳を続けるかも分かりません』と答えたら、『じゃあ東洋大学に来ないか?』と声をかけていただきました。なぜこんな著名な方が自分に興味を持ってくれるのか、当時は本当に驚きましたし、すごく嬉しい出来事でした。」と大橋さんは心境を語る。そして、平井コーチのいる東洋大学に進学を果たした。

大学2年ー貧血に苦しんだ、心身ともにどん底の時期ー

大学進学後、多くの優秀な選手が集う東洋大学のレベルに徐々に自信を失っていった大橋さん。そして、大学2年時に競泳人生最大の危機を迎える。グラフのもっとも低い位置まで落ち込んだこの時期について、大橋さんは率直に当時の状況を語ってくれた。

「大学2年が本当のどん底でした。貧血になった年でしたね。身体も心も状態が悪く、何もポジティブに考えられませんでした。モチベーションの問題ではなく、単純に身体が動かない状態だったんです。」

原因不明の体調不良に半年ほど苦しみ、「大橋はやる気がないのではないか?」という周囲の誤解に心を痛めることも少なくなかった。

「親が病院に連れて行ってくれた際の血液検査で貧血が発覚し、医師から『よくこの状態で泳げていたね』と言われた時、ようやく『自分のせいじゃなかったんだ』と気づきました。ホッとすると同時に、少し前向きになれた瞬間でした。」

大学3年〜4年ー急上昇期と日本記録更新ー

大橋さん 画像

人生のもっとも苦しい時期を乗り越えた大橋さんに待っていたのは、才能の開花だった

写真 フォート・キシモト

貧血の治療を始めてから1〜2ヶ月で本来の泳ぎが戻り始め、大学3年時の2016年リオデジャネイロの選考会に向けてグラフは急上昇。この苦難を乗り越えた経験が大橋さんの競泳に対する姿勢を大きく変えた。

「それまでは『優勝できそうなら頑張るけど、無理そうなら3位狙い』といった消極的なスタンスでした。でもこの経験で初めて『泳げることがこんなに楽しい』と実感しました。自分の考えた泳ぎが身体で表現できる喜びを知りました。」

リオデジャネイロに向けた選考会では400mで3位となり日本代表入りとはならなかったが、大学4年の2017年には日本選手権で4分31秒42を叩き出し、日本記録を更新した。世界選手権では200m個人メドレーで銀メダルを獲得し、国際レベルで戦える・勝てる選手へと飛躍を遂げた。

2018〜19年ートップ選手としてのプレッシャーとの戦いー

実績を積み重ね、周囲からの期待値が高まる中で大橋さんは新たな壁に直面する。それは「追いかける側」から「追われる側」への立場の変化だ。名実ともにトップ選手となった大橋さんだったが、当時は戸惑いを感じていたと振り返る。

「2019年はある程度結果を出せたこともあり、プレッシャーをすごく感じるようになりました。自分で自分にプレッシャーをかけすぎて、練習はできているのに頭で考えすぎてレースに影響してしまう。『メダルを取らなきゃ』『結果を残さなきゃ』という気持ちが大きくなり、苦しい時期でした。」

2020〜21年ーコロナ禍の苦悩と東京での2冠達成ー

大橋さん 画像

混沌とした世界情勢の中でも、自らの泳ぎで栄冠を手繰り寄せた大橋さん。東京の地で努力が結実する

写真 フォート・キシモト

2020年、新型コロナウイルス感染症拡大の影響により、スペインでの合宿中に緊急帰国を余儀なくされ、東京での世界の大舞台も1年延期された。目標を見失いかけた時期をこう振り返る。

「コロナ禍で試合が全部なくなり、練習は続けていても『何のためにやっているのだろう』と迷いがありました。それでも『東京に向けて気持ちを高めるしかない』と自分を奮い立たせました!」

不安を抱えながらも、2021年の東京の大舞台で大橋さんは見事に女子個人メドレー200m・400mで2冠を達成。一躍、個人メドレーの女王の座をつかんだ。

「正直、メダル獲得のチャンスはあるかもとは思っていましたが、試合が少なすぎて自分の調子が分からず不安もありました。2016〜17年から女子個人メドレーという種目を引っ張ってきたという自信があり、『それを東京の地でちゃんと出したい』という気持ちが一番強かったですね。」

2022〜24年ー引退への花道と全力で駆け抜けた現役生活

大橋さん 画像

2024年のパリを最後に、現役を退いた大橋さん。全力で駆け抜けた納得の最後だった

写真 フォート・キシモト

東京での世界の大舞台後、世界の頂点を極めたことによる目標の喪失感とともに引退時期についても悩んだ大橋さん。モチベーションの低下を正直に認めつつも、最終的には2024年のパリでの世界の大舞台まで現役を続け、納得のいく形で区切りをつけた。

「東京が終わった後、引退するかを迷いましたが、無観客という異例の事態だったので、『東京が最後のレース』という感じがしませんでした。2023年に福岡で開催された世界選手権は、自国開催の有観客の大会であり、家族や友人が応援に駆けつけてくれました。ファンからの声援にも助けられ、気持ちで泳ぐことができましたね。そして、集大成となったパリ――。『しんどいことばかりだった』と思って終わりたくなかったので、ポジティブな気持ちのまま全力でパリに挑戦し、納得して最後まで駆け抜けることができました。」

栄光の瞬間ばかりではなく、現役時代に多くの浮き沈みを経験した大橋さん。公の場では常に冷静で分析的な姿を見せていたものの、その裏には意外な一面もあったと明かす。

「『すごくしっかりしてるね』とよく言われます。優勝インタビューやテレビに映る際にしっかり考えている風に話しているので、そう見えるのかもしれません。でも実際は、全然しっかりしてないんですよ(笑)。」と笑い飛ばした。

平井コーチからは「繊細すぎて難しい」と評されていたという大橋さん。トレーニングについても独自の考えを持ち、時にはコーチと激しい議論を交わすこともあった。

「先生とバトルしたことは何度もあります。でもそれは、お互いにより良くしようと考えているからこそ。自分の考えをちゃんと相手に伝えて、正面からぶつかり合って、より良くしていく。それが選手として成長するためには、すごく大事なことだと思います。」

引退後のセカンドキャリアで競泳界への恩返しと新たな挑戦を

大橋さん 画像

指導者、大学院生、そしてセイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)。大橋さんはセカンドキャリアですでに新たな挑戦を始めている

写真 落合直哉

現在、大橋さんは所属先のイトマンで指導者としてのキャリアをスタートしている。そして、2025年春からは恩師・平井コーチのいる東洋大学で非常勤講師を務める傍ら、同大大学院への進学も果たした。

「平井先生とは引退後も結構会っています。『最近どう?』『競泳界どうなってる?』といった話を気軽にする関係です。大学の一般学生向けの水泳授業を一緒に担当する予定なので、とても楽しみにしています。」
さらに、自身が貧血を患った経験を踏まえ、栄養学を専攻するために大学院進学を決めたという。

「私自身、貧血で悩み苦しんだ経験があります。まずは自分自身がしっかり勉強して知識を身につけていきたいと思っています。競泳界には栄養の知識を持つ選手や指導者が実は少なく、栄養士をチームにつけること自体がまだ珍しいのが現状です。『練習すれば速くなる』というスポ根だけではなく、栄養や睡眠など周辺要素の重要性もしっかりと発信していきたいと思います。今後は「水泳×栄養」という視点でサポートしていきたいです。」

また、プライベートでは、引退したからこそできることへの挑戦も楽しみにしているようだ。

「現役時代にはできなかったバンジージャンプやスカイダイビングをやってみたいです。友だちがスカイダイビングの映像を見せてくれて、すごく楽しそうだと思いました。あとはスキーなど冬のスポーツや、SUP(サップ)にも挑戦したいです。現役時代はケガのリスクがあるアクティビティには挑戦できなかったので、今はとにかく身体を思いっきり動かす活動がしたいですね!」

「チャレンジを始めるのに遅すぎることはない」

大橋さん 画像

セカンドキャリアでさまざまな挑戦をする大橋さんは、チャレンジャー精神を持ち続けることを大切にしている

写真 落合直哉

長年の競泳人生を振り返り、最後に大橋さんは応援してくれた人々に感謝を示し、自身の経験から得た大切な教訓を教えてくれた。

「現役時代、本当にたくさんの応援をありがとうございました。これからもいろんな分野に挑戦を続けていきたいと思っています。新しいことにチャレンジする際は、『始めるのが遅いかな』と不安になることがあると思います。私が水泳を始めた時もそうでしたし、大学院に行くことも『ちょっと遅いかな』と考えた時期がありました。でも、何かを始めるのに『遅い』ということはないんです!」

「だから、みなさんにも『いつでも始められる』『いつからでも挑戦できる』と思って、どんどんいろんなことに取り組んでほしいと思います。これからも『チャレンジャー』として頑張ります!」

大橋悠依

セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
大橋悠依

2021年の東京五輪女子200m・400mの個人メドレーで金メダルを獲得し、2冠を達成した元トップスイマー。2022年には日本女子競泳選手で初のプロ転向を果たした。女子200m・400mの個人メドレーの日本記録保持者でもあり、個人メドレーの女王として君臨した。現在は、大学院に通いながら指導者の道を志す。

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