文 大西マリコ
写真 フォート・キシモト
陸上競技の世界一を決める「世界陸上競技選手権大会(世界陸上)」が、2023年大会はハンガリー・ブダペストで開催される。セイコーが18大会連続でオフィシャルタイマーを務める今大会は、いよいよ8月19日(※日本標準時)に9日間にわたる熱戦の火蓋を切る。世界中のトップアスリートが記録や順位を巡ってしのぎを削る姿は、陸上競技ファンはもちろん、普段は観戦する機会がない方にとっても必見だ。
そんな世界陸上観戦をより楽しむためには、過去の日本人選手の活躍や激闘の歴史を知ることが欠かせない。そこで今回は過去の世界陸上の名シーンを本人のインタビューを交えて特集する。語ってくれたのは、20年前の世界陸上パリ03の男子200mで銅メダルを獲得した末續慎吾選手。日本人選手初となるスプリント系種目でのメダル獲得という快挙と歓喜の瞬間の雄叫びを覚えている方も多いだろう。20年の時を経て今だからこそ語れる“あの時”や初心者向けの世界陸上観戦のポイントなど、多岐にわたり語ってもらった。
世界陸上観戦のポイントは「選手の感情を楽しむこと」
写真 落合直哉
2001年エドモントン大会(カナダ)、2003年パリ大会(フランス)、2005年ヘルシンキ大会(フィンランド)、2007年大阪大会(日本)と過去4度の出場経験があり、世界陸上パリ03では男子200mにおいて銅メダルを獲得しました。世界陸上とは非常に縁が深く、思い入れもあると思いますが、末續選手にとって世界陸上はどんな大会でしょうか?
選手にとっては、間違いなく世界最高峰の大会です。陸上競技をあまり知らない方でも興味を持って見てもらえる、圧倒的な認知度と観客数を誇る陸上競技のための祭典という印象ですね。
また、水泳や体操などさまざまな競技が開催されるスポーツの総合大会とは異なり、世界陸上はその名の通り陸上競技だけが行われます。まさに「陸上競技を専門分野とする世界の精鋭が集う大会」と言えるでしょう。「シンプルに誰が速いのか」を追求していますし、シンプルだからこそ奥が深い。また、1つの競技の世界大会としては歴史も長いので、常に特別な意識を持って世界陸上に臨んでいました。
2023年もブダペスト大会の開催が迫っていますが、末續選手はどんな点に注目していますか?また、陸上にあまりくわしくない方に向けての注目ポイントも教えてください。
僕は競技歴が長いので、「単純な速さ・すごさ」よりも「選手の魅力」に注目して観戦しています。最近だと、クールであろうとする印象が強い男子選手と比較して、女子選手がより魅力的に、かつドラマティックだと感じることが多いですね。たとえば、やり投げの北口榛花選手のように喜怒哀楽を素直に表現している姿には輝きを感じます。力強い感情や情緒が垣間見える瞬間は、特に素晴らしいなと。
それこそ、陸上競技についてあまりくわしくない方には、選手の感情に注目することをおすすめしたいです。陸上競技の専門的な技術などは難しいですし、僕が聞いていても面白くないくらいなので(笑)。やっぱり人の心に響くのは感情なんだと思います。選手が感じている思いや表情、目線などを素直にありのままに受け入れて観戦することで、次第に選手に興味を持ち始め、さらには陸上競技そのものに対する興味も深まっていくはずです。
感情が大爆発した20年前の雄叫び・恩師との熱き抱擁
写真 フォート・キシモト
世界陸上の観戦ポイントとして「選手の感情」を挙げていただきましたが、2003年パリ大会・男子200mでの銅メダル獲得の瞬間の末續さんの「魂の雄叫び」も印象的でした。当時を振り返ってみて、どんな心境だったのでしょうか?
喜怒哀楽の感情が高まると人は叫ぶのだと思うのですが、銅メダルを獲った時は何がなんだか状況が分からず、指導してくれていた高野進監督と抱き合い、ただただ雄叫びを上げていたというのが正直なところです。どんな感情だったかは、一言で言い表せません。あの時の感情がそのまますべて出ていたのだと思います。
その一方で、「本能的には達成した偉業のすごさを分かっていたからこその叫び」だったのかなと時々振り返って思うことがあります。魂から出た雄叫びというか、本当に心から湧き出るような叫びでした。「とても価値がある、とんでもないことを成し遂げたこと」を本能的に感じていたからこそ感情が爆発したのかもしれません。
スプリント系種目では「日本人初のメダル獲得」という偉業を成し遂げたわけですが、その後、環境や価値観に変化はありましたか?
もっとも感じたのは「アスリート・末續慎吾」という人物に対する世間とのギャップです。
その後スプリント系種目でメダルを獲得する選手が20年間出てきていないことからも分かるように、あの舞台で結果を出すことは簡単ではありません。でも一度でも達成してしまうとそれが当然のように周囲は考え、常に同様の結果を求められてしまう。当時はその期待に応えたくてさらに必死になりましたが、どんどん走れなくなる自分がいました。あまりにもすごいことを成し遂げてしまったから、重過ぎて受け止めきれなくなった面がありました。
アスリートは自分の存在すべてを懸けて試合に臨み、失敗したら全部崩れてしまう――。「速く走らないと死ぬ」と思ってしまうほど没頭して、己の体のみで挑んでいたので苦しかったですね。当時は成し遂げたことも多々ありましたが、その反面で苦しむことも多かったと思います。
写真 落合直哉
誰も経験したことのない境地ゆえに、末續さんにしか分からない思いや苦労があったのですね。そんなギャップをどう埋めていったのでしょうか?
何かをしたというよりは、過ごしてきた「時間」が解決してくれました。
今は情報やトレーニング理論、選手を取り巻く環境など、20年前と比べて圧倒的に進化していますよね。それなのに世界陸上パリ03で出した結果やその年に更新した日本記録は未だに破られていません。20年間もその結果や記録が塗り替えられることがないことで、周囲もそのすごさに気づいて求めなくなってきたのでしょう。「末續が成し遂げたことは簡単なことではなかった」と周囲が認識し始めてからは、気持ちが軽くなりましたね。
世の中には、時間が必要なことや、時間が経たないと分からないことがあるのだなと気づきました。この20年間、僕の出した結果や記録に挑んできた日本人の姿を見て、ようやく「2003年の走りには価値があったんだな」と客観的に思えるようになりました。
実はスタートだった快挙達成。栄光の後の「違和感」が糧に
写真 落合直哉
華やかな舞台と功績の裏で、銅メダルを獲得後は「苦しみが多かった」というのは意外でした。ではメダルや日本記録を手にしたことで良かったことや、得たものはありますか?
世界陸上パリ03以降は苦しかったですし、現在も苦しいことは多いですが、「今も陸上を続けていること」。それが最大の価値ですね。
43歳になっても現役のスプリンターであり続けていることが末續選手の考える価値ということでしょうか?
普通に考えたら、日本記録を出して日本人初のメダルを獲得したら、そこがゴールになる人も多いのではないでしょうか。でも僕の場合は違いました。実はそこからがスタートだったんです。自分が欲しいものを手に入れたにもかかわらず、「あれ?何か違うかも」という何とも言えない感情に苛まれました。本能的に違和感を覚えました。でも、その違和感こそが僕たちアスリートが真に試される時だと思うんです。「この先があるはずだ」「この先を語る人をまだ見たことがないから見てみたい」という直感を信じて、大変だけどここまで進み続けてきました。
山登りのたとえにはなりますが、山頂に到達したからこそ見られる景色、溢れ出す感情があったのでしょうか。成し遂げたからこそ次のレベルを肌で実感できる、初めての感情に気づくというのは、非常に深い話ですね。
おっしゃる通りだと思います。僕の場合は、もし2003年パリ大会でメダルを獲得していなかったら、2008年に北京で開催された世界の大舞台まで現役を続けていなかったかもしれません。目標に突き進んでいる時は、ガムシャラであり、何も考えなくていいから実はラクなんですよね。
でも迷ったり、戸惑ったり、気持ちが上がったり下がったりするのが人間なんです。ゴールだと思っていた場所が実はスタートだと感じた際の感情は、その時になってみないと分かりませんでした。ただ、そういう貴重な経験を積むことで「本質的な思考」に若くして辿り着くことができた点においては、僕は非常に運が良かったのだと思います。
恩師・高野監督のもとで学ぶ後輩・デーデー選手にエール
写真 落合直哉
現在Team Seikoには、末續さんの恩師でもある高野監督が指導するデーデー・ブルーノ選手がいます。2003年パリ大会の末續さんと高野監督の「熱い抱擁」でもらった感動を後輩に再現してもらうべく、末續選手からデーデー選手にメッセージをお願いします!
僕の師匠の高野先生が見ている子なので、それだけで素晴らしい才能に溢れた選手であることは間違いありません。ただ、デーデー選手は非常に心優しい人だという印象があるので、人の話をいろいろと聞きすぎてしまう部分があるのではないかと想像しています。
同じ恩師のもとで学んだ先輩としてアドバイスするなら、自分自身の感覚や持っている力に素直に向き合うことも大事だと伝えたいですね。感情や本能について多く触れてきましたが、そうした野性に目覚めてもいいタイミングかもしれません。与えてもらうというスタンスではなく、自分から生み出すことの重要性に気づくと今よりももっともっと素晴らしい選手になれるのではないかと思います。デーデー選手のさらなる活躍を期待しているので、これからも応援し続けます。
陸上短距離選手
末續慎吾
世界陸上パリ03の男子200mで日本人初のスプリント種目系でメダルを獲得の偉業を成し遂げた。北京五輪の男子4×100mリレーでも銀メダルに輝くなど、日本短距離界の第一人者だ。40歳を超えてもなお、100m10秒台をキープしている現役のスプリンターでもある。