文 上田まりえ
写真 阿部健太郎
ヘアメイク AKI aöki
2021年の陸上シーズンが、幕を開けた。トラックを舞台にする短距離の選手たちにとっては、ここから自国開催の夢舞台へ代表権争いが加速していく。100m、200m、そして4×100mRの日本記録保持者であり、女子短距離界の第一人者であり続ける福島千里にとっても、4度目の出場に向けた勝負の時を迎える。
しかし、ここまでの道のりは決して平坦なものではなかった。2018年夏に両アキレス腱痛を発症。「我慢して、我慢して、我慢して、ずっと騙し騙しやってきてのケガだった。」と本人が語るように、この数年はケガとの戦いが続いた。前人未到の7連覇を含め、通算8度の優勝を誇る日本選手権も2019年は欠場。2020年は参加標準記録に届かず、出場すら叶わなかった。
心機一転して活動拠点を移した福島は、新たな環境の中で「毎日の変化を楽しみながら練習できた」と復調をアピールする。10年以上にわたり日本陸上界をけん引している“短距離の女王”が、速さを追求し続ける理由は何なのか。32歳、ベテランの今を聞いた。
目次
シーズン初戦を終えた正直な気持ち
「ここ2、3年調子が上がってこなかったので、自国開催の世界の大舞台に向けて不安もありましたが、初戦を終えてちょっと前向きな気持ちになっています。」
そう話す福島は、インタビュー数日前に今シーズン初戦となる記録会に挑んだ。100mの記録は11秒86。昨シーズンの自己ベストよりも0.4秒近くタイムを上げ、次のレースに向けて手応えを感じるスタートを切れたという。
写真:アフロスポーツ
昨年秋に練習拠点を変えたことについては「中くらい……いえ、大きな変化だと思います。」とユーモアを交えながら前置きをしたうえで、次のように語った。
「練習環境が変化したことで、関わる人が大きく変わりました。人が変われば見方も変わります。周りの方からのアイデアによって選択肢も広がりました。サポートしてくださった方たちのためにも、初戦で結果を出せて良かったです。タイムにして形にできるのは私しかいないので、ゴールした後に“良かった”という安心感を覚えました。ただ、その1秒後には“いやいや、ベストにはまだ遠い”と思ったんです。」
周囲への感謝とともに、次につながる走りができたことへの安堵を見せた福島だが、その目はすでに先を見ていた。
今は次がないことを覚悟している状況
福島が保持する100mの日本記録は11秒21。この記録は破る者は、11年間現れていない。
「私の場合、ベストを出すことは日本記録更新を意味します。さらに世界大会の派遣標準記録は11秒15秒なので、“良かった”だけで終わらせるのではなくて、“快進撃”でなければダメなんです。ここからさらにピッチを上げていかなければならないので、“良い”こともすぐに“良かった”と過去形にして、スピード感を持って次に進まなければいけないと思っています。」
常にトップを走り続けた福島だが、結果との向き合い方に関しては意外な一面を見せる。
「ベテランになって切り替えが早くなるタイプの方もいますけど、私の場合は違います。さまざまな経験を積んでいく中で、ウジウジするようになりました(笑)。ただ、今は結果を出さないと次がない状況なので、ウジウジしている暇は無いですよね。」
だからこそ、大事にしているのが“スピード感”だ。
「今までは何事も時間をかけて決めるタイプでした。でも常に進化を求める中で、スピーディーに切り替えることがより重要だと考えるようになりました。選択や決断のスピード感が競技に直結するのだと気づいたんです。練習だけやっていればいいというわけではありません。“練習のために何をしなければいけないか”、もう一つ先を考えられるようになってからは、今やるべきことがちょっとずつ見えてくるようになりましたね。」
「私は走ることだけでここまできた」
福島が自分の限界に常に挑み続ける原動力は、とてもシンプルなものだ。
「いつも根底にあるのは“もっと速く走りたい”という気持ちです。もうちょっと速く走れるのではないか。2010年に日本記録を出したときも、実はそう思ったんです。現状維持ではなく、“昨日よりも速く”を一日一日積み重ねていけば、さらに速くなれるし、良い状態で進化することができると思うんです。」
写真:アフロスポーツ
困難にぶつかることや息詰まることだって、もちろんある。そんなとき、周囲の応援やサポートが「よしっ、またがんばろう!」と思わせてくれるのだという。
「競技生活を続けているといろんなことが起こりますが、そんなときにいつもたくさんの人がいて、目指しているところに近づくための道を作って導いてくれるんです。自分一人では難しいことも、周りの人たちに恵まれているからこそ実現できたのだと思います。幸いにも、私には走ることだけに集中できる環境がありました。だからこそ私は、速さを追求することに欲張りなんだと思います。そのせいで周囲には相当考えさせてしまっているかもしれませんね。」
セイコーがオフィシャルタイマーを務める織田記念での目標
次に控える大会は、4月29日に広島で開催される「織田幹雄記念国際陸上競技大会」、通称「織田記念」だ。今年で55回目を迎える織田記念は、グランプリシリーズの初戦である。つまり世界の大舞台を目指す選手にとって非常に重要なレースなのだ。
福島の100m11秒21という日本記録は、この織田記念で2010年に生まれた。
「良い記録を出したのと同じくらい苦い思い出があるので、相性が良いのか悪いのかはわからないのですが、楽しみな大会です。」とあどけなく語る福島には、11年前の再現を期待せずにはいられない。
また織田記念は、セイコーがオフィシャルタイマーを務めている大会でもある。ゴールした瞬間、一番にゴールに飛び込んできた選手のタイムが表示される黄色いトラックタイマーに、福島は特別な想いを抱いているようだ。
「自分のタイムが表示されるのは1番の人の特権なので、すごくうれしいことなんです。しかも、自己ベストや日本記録を更新したら、ものすごい数のカメラに囲まれてタイマーの前で写真を撮ってもらえるから、一生の記念になるわけで。経験しているからこそ、それがどれほどすごいことなのかわかるんです。」
一番になった者にしかわからない景色が、眼前には広がっているのだろう。
一方で「実は所属になってからセイコーのトラックタイマーの前で、個人として記念写真を撮ったことがないんです。」という福島。
「やはりセイコーに所属させてもらっているからには、記録を更新して一緒に写真を撮るのが大きな目標です。そしてもちろん、目指すは4年に一度の夢舞台です。そのためにクリアしなければならないことははっきりしているので、一日一日しっかりやっていきます。」
世界大会に向けた、記録更新という己との戦い。そのスタートの号砲は高らかに鳴り響いた。
写真:アフロスポーツ
代表選考のカギを握る織田記念陸上に注目
4月29日に開催される「第55回織田幹雄記念国際陸上競技大会」は、セイコーがオフィシャルタイマーとして大会を支えます。
セイコー社員アスリートからは山縣亮太選手、福島千里選手の2名が熱い戦いに挑みます。
織田記念は4年に一度の夢舞台の代表選考にもつながる大事な大会。
選手たちが苦しい時期も積み重ねてきた努力が花開くのか、目が離せないレースとなりそうです。
セイコーは0.01秒を争うスポーツのタイム・スコアの正確な計測によって、多くの競技を支えています。
肉体を極限にまで鍛え上げ、自らの限界を超えた領域に挑み続けるアスリートたちの成果を記録として残すことで、スポーツが生み出す「ドラマの証人」となってきました。
スポーツに本気で向き合う人の気持ちに寄り添い、その内面に少しでも触れられる機会を作るためにも、HEART BEAT MAGAZINEではスポーツの魅力やスポーツの持つ力を、余すことなくお伝えします。
CHISATO FUKUSHIMA
セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
福島千里の記事
セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)
福島千里
北京・ロンドン・リオデジャネイロと3大会連続で世界の大舞台に出場。女子100m、200mの日本記録保持者。日本選手権の100mで2010年から2016年にかけて7連覇を成し遂げ、2011年の世界陸上では日本女子史上初となる準決勝進出を果たした。引退後は「セイコースマイルアンバサダー(スポーツ担当)」に就任。「セイコーわくわくスポーツ教室」などの活動を通じて次世代育成に貢献している。