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文 村上アンリ
写真 近藤 篤

世界の舞台で3度も金メダルを獲得した野村さんも、最初から強かったわけではありません。悔しさで泣いた経験を経て培ってきた柔道の「心」と「強さ」。後編では、真剣な努力を続けていけばいつか必ず強くなると信じ、ときどき負けることも重要だと語る柔道の精神性についてお聞きしました。

前編はこちら

【前編】野村忠宏が語る柔道の再開。コロナがもたらした柔道界の変化とは?

野村忠宏 写真

礼の「精神」と試合を勝ち取る「精神」は別もの

前編「GOJIRA」という映像分析システムについてお話がありました。ちょっと曖昧な質問になりますが、そういった科学的なアプローチが進化していく中で、柔道において「心」というのは大事な要素なのでしょうか?

「心」ですか……。前編で言った通り、柔道における本質的な部分、礼の精神、という意味では大事です。でも、その礼の精神と、人生をかけた試合をギリギリのところで勝ち切るという精神は、別だと思いますね。いくら相手に対する感謝や敬う気持ちを持っていても、追い詰められたときにさらにもう一歩攻めに踏み込んでいく強い気持ちは、別物です。

※GOJIRA:柔道に特化した分析システム。個々の選手のポイントや技の種類や精度、組み手の分類、時間帯別の得点・失点、罰則などの情報、あるいは審判の傾向などが入力されデータベース化されている。

では、その強い気持ちはどんな風に自分の中に蓄えてきたのですか?

どうなんでしょうね。それはもともとその人が持っている心の強さかもしれないし、あるいは試合に敗れ、悔しさを味わうことで培っていくものかもしれないです。

野村忠宏 写真

野村さんは中学1年生で本格的に柔道の道を歩み始めたとき、地元の大会で同学年の女子選手に負けたんですよね?

はい、そうです。私はこの道場で3歳から柔道を始めて、小学生時代は週3回練習をしていました。ほかにも野球、サッカー、水泳をやっていたのですが、中学に上がるとき、これからは柔道1本で行くことに決めたんです。そこで、1歳上の兄の背中を追う形で柔道の名門である天理中学に進学したのですが、中学1年生の最初の試合、市民体育大会でその女の子に負けちゃったんです。

それは衝撃の体験でしたね。今おっしゃられていた悔しさというのは、そういう経験からスタートしているのですか?

いや、悔しさを感じるのはまだそのしばらく後です。当時の私はまだ本当に小さくて、体重は32キロでした。中学生で一番小さいカテゴリーは55キロ以下だから、その中で32キロはかなりの身体的ハンデがありました。相手の女の子は体格も良かったし、小学校のときから本格的にやっていたので、負ける要素は十分にありました。どちらかというと、女の子に負けて恥ずかしい、という感覚でした。

「負け」から始まった野村忠宏の柔道

野村忠宏 写真

女の子に負けたことで、本格的に3連覇の柔道家、野村忠宏の人生が始まったわけですよね。

そうですね。自分はまだ中学1年生で、未来はあるんだという根拠のない自信がありました。今は弱いかもしれないけれど、真剣な努力を続けていけばいつか必ず強くなれる、と。とにかく自分が輝ける場所が欲しい、それが柔道にのめり込んでいった理由だと思います。

中学1年生で32キロしかなかった少年が、いつのまにか世界の舞台で3連覇。現役時代の野村さんを見ながら、12年間強くあり続けるってどういう心の持ちようなんだろう、と考えていました。

必ずしもその間、常にトップではなかったんです。軽量級では、ずっと勝ち続けるというのはほぼありえない。ただ、絶対にここは負けられないというポイントがあるんです。そこを勝ち抜くために、ときどき訪れる負けというものがものすごく大事になるんです。

悔しさで成長するということですか?

例えば、試合で負けた選手がインタビューで、今日の負けはいい経験になりました、とか答えますよね。そうじゃないだろ! って思うんですよ(笑)。いい経験にするかどうかは、次の日からの自分次第、その負けで見えた課題を克服し、次に繋げられたときに初めて、いい経験だったと言うべきではないかと。

三連覇の裏側に潜むプレッシャーとの戦い

負けから学びつつ、本当に勝たなきゃいけない勝負に挑むとき、のプレッシャーは並大抵のものではなかったんでしょうね。

3大会だけ振り返っても、それはもう凄まじいプレッシャーでした。己を知りながら世界一になるための本物の努力を積み重ねる日々はめちゃくちゃやりがいがありました。それと同時にめちゃくちゃキツかったですけど(笑)。

当然、相手も野村選手のことを研究してくるし、ルールも変わりますよね。

例えば柔道衣。いかに相手に組ませないようにするかを考えて、襟のところがものすごく硬くて分厚かったり、袖の部分が極端に細かったり、そういう対策をされたこともあります。背負い投げを得意とする自分のような選手にとっては、襟が硬くて分厚いとなかなか技をかけづらいんです。

野村彦忠館長へのメッセージ 写真

野村さんが育った道場に掲げられている、じいちゃん(野村彦忠館長)への感謝のメッセージ。

なかなか観ている人間にはわかりづらい部分ですね。

逆に自分は、こちらの道着を大きめにし、まず相手に組手を取らせようと、相手にとって掴みやすい柔道着にしたんです。柔道では、組手で勝負が決まる、と言われるくらい、選手は誰もが10対0で自分に有利な組手に持ち込みたい。相手に有利な組手を組ませ、その不利な組手から最終的には自分にとって6対4くらいの組手に持ち込んでいく、という戦術を取りました。

なるほど、そういう視点で見ると、柔道の試合もさらに奥深いところがわかるようになりますね。では最後に、2021年の東京の大舞台に向けて、野村さんの思いを語っていただけますか?

1964年の東京で柔道が正式競技として採用され、日本武道館が建てられ、その武道館を舞台にまた柔道が東京の大舞台に戻ってくる。私は柔道とともに生きてきた人間ですから、それを考えただけで身震いするくらいです。柔道の聖地で行われるその戦いの中で、日本の選手たちがとんでもないプレッシャーを抱えながら、どんな柔道を見せてくれるのか……。

やはり世界の舞台、それも自国開催となると、とてつもない重圧なんでしょうね。しかも、日本には、柔道は勝って当たり前みたいな雰囲気もあります。

僕自身、3連覇したどの大会を振り返っても、大会が始まる直前は、ひたすら緊張と不安と恐怖しかなかったですから。試合の前日なんて、大会が中止にならないかな、ライバルと目されている選手が減量に失敗しないかな、というネガティブな思考に襲われていたので、ひたすら自分の弱い心と戦いでした。

4年に1日しかない、その日にチャンピオンになるために

毎日、世界一になるためには何をすればいいのかを自問自答して、やれることはすべてやりきって、それでも足りない?

柔道はタイムで競うものではなく、相手があって成り立つ競技です。1日5試合に臨む試合当日に自分がどんな状態かわからないし、対戦相手も1回戦から決勝まで全部違う。とにかく見えない部分、予測できない部分が多すぎるんです。自分の場合は試合前日は2時間も眠れない精神状態でした。当日試合会場に行っても、計量している同階級の選手を見るとみんな筋骨隆々で、強そうやなあ、って(笑)。

野村忠宏 写真

そんなネガティブな自分がどこで変わるんですか?

本番で畳の上に上がる直前ですかね。まずトイレに行って、冷たい水で顔を洗って、鏡に映った自分の目をしっかりと見ながら、今日自分が勝つためにやってきたことを思い出す。あとは絶対にチャンピオンになるんやと自分に言い聞かせ、顔をばちんと叩く。弱気な自分を断ち切って、畳へ上がっていくんです。4年に1日しかない、その日にチャンピオンになるために。

無茶を承知で伺います。野村さんも東京の大舞台に立ちたかったですか?

立ちたくない柔道家なんて、1人もいませんよ(笑)。

世界の舞台でチャンピオンになるチャンスは、4年にたった1日しかない──なんと重たい言葉でしょう。3度もチャンピオンを経験した野村さんの言葉には、一つ一つ説得力があり、アスリートがどのような精神世界で戦っているのか、実感できたのではないでしょうか。今後の日本選手の活躍に注目です。

セイコーは自分の限界を超えることに挑戦しつづけるアスリートたち、そしてスポーツが生み出すドラマを応援しています。
スポーツに本気で向き合う人の気持ちに寄り添い、安心して心からスポーツを楽しめる日が来ることを願って、HEART BEAT MAGAZINEではスポーツの魅力やスポーツの持つ力をお伝えします。

プロフィール写真

柔道家・医学博士
野村忠宏

1996年アトランタオリンピック、2000年シドニーオリンピックで2連覇を達成。2年のブランクを経てアテネオリンピック代表権を獲得し、2004年アテネオリンピックで柔道史上初、また全競技を通じてアジア人初となるオリンピック3連覇を達成する。
2015年8月29日、全日本実業柔道個人選手権大会を最後に、40歳で現役を引退。国内外にて、柔道の普及活動を展開。また、テレビでのキャスターやコメンテイターとしても活躍。自身の柔道経験を元に講演活動も多数行い、全国を飛び回っている。

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