文 宇佐美裕之
100mや200mの短距離走、110mハードルなどの中継を観戦している際、テレビ画面などに表示された「+1.5m/s」や「-0.8m/s」といった数値を目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。
短距離種目で、勝敗や記録を大きく左右する要素のひとつが「風」です。風向きや風速が選手のタイムにどれほどの影響を与えているのか、そしてなぜ陸上競技でこれほど厳密に風が計測されているのかは、意外に知られていません。
本記事では、世界陸上をはじめさまざまな国際大会で計時計測を支えてきたセイコーが、「短距離走と風速計の知られざる関係」について分かりやすく解説します。
※1m/s(メートル毎秒)とは、1秒間に1メートルの距離を進む速さのことです。
「風速1m/s」で、タイムはどのくらい変わる?
陸上競技において、走る選手に対して直接的・物理的に影響を与える要素のひとつが「風」(追い風や向かい風)です。一般的に、風速が1.0m/s変わるごとに男子100m走のタイムはおよそ0.05秒〜0.06秒程度変動するとされています。100分の1秒を競う短距離の世界において、この差は順位がガラリと入れ替わるほど大きなインパクトを持ちます。
風速の差によって、実際のタイムにはどの程度の差が生じるのか――。風速ごとの影響の目安を以下にまとめました。
【風速がタイムに及ぼす影響】
| 風速条件 | タイムへの影響の目安(100m走の場合) |
|---|---|
| 追い風 5.0m/秒 | 約-0.25秒〜-0.35秒 |
| 追い風 2.0m/秒 | 約-0.10秒〜-0.12秒 |
| 追い風 1.0m/秒 | 約-0.05秒〜-0.06秒 |
| 無風 | ±0.00秒(標準) |
| 向かい風 1.0m/秒 | 約+0.05秒〜+0.06秒 |
| 向かい風 2.0m/秒 | 約+0.10秒〜+0.12秒 |
| 向かい風 5.0m/秒 | 約+0.30秒〜+0.40秒 |
※参考:日本陸上競技連盟公式サイト「風速がタイムに及ぼす影響」
※上記は一般的な物理シミュレーションおよび研究データを基にした目安であり、選手の走法や体型によって変動します
具体的な事例として、セイコーゴールデングランプリ2026(5月17日に開催)の男子100mにおいてデーデー ブルーノ選手が「向かい風1.1m/s」という条件下で10秒25を記録したケースで考えてみましょう。もしこのレースが向かい風ではなく「無風」や「追い風」であった場合、理論上、タイムは次のように変化していたと考えられます。
- 実際の記録 向かい風 1.1m/s:10秒25
- Case1 無風(0.0m/s)だった場合:約10秒19
- Case2 追い風 2.0m/sだった場合:約10秒09
このように強い向かい風の中で出た10秒25という記録は、無風であれば10秒1台、公認記録として認められる追い風の上限であれば10秒0台に相当する素晴らしい走りであったことが分かります。観戦の際に表示される風速にも注目すると、選手の潜在的なパフォーマンスをより深く理解できるでしょう。
なぜ陸上競技では厳密に追い風・向かい風を測るのか?
タイムに対する風の影響が大きいため、陸上競技では厳格なルールに基づいて、風向と風速が計測されています。
「追い風参考記録」が存在する理由
陸上競技では、公認記録として認められる追い風の上限を「2.0m/sまで」とルールで定めています。もし追い風が2.0m/sを超えた場合、そのレースで出されたタイムは公式の日本記録や世界記録として認められず、「追い風参考記録」として扱われます。これは、強い追い風によるアシストを受けた記録と、無風や向かい風の中で出された記録を同じ基準で評価してしまうと、競技の公平性が保てなくなるためです。
陸上競技ではタイムに対する風の影響が大きいからこそ、こうしたルールが設けられています。ルールを適切に運用するためには、風向と風速の厳密な計測が欠かせません。
種目ごとの計測方法と設置位置
風を測定する装置である「風向風速計」は、すべての種目で同じ位置に設置されるわけではありません。種目ごとの特性に合わせて、設置位置や計測する時間(秒数)も厳密に規定されています。
| 種目 | 風向風速計の設置位置 | 計測時間・タイミング |
|---|---|---|
| 100m | フィニッシュラインから50m手前 (第1レーン横) |
スタートの瞬間から10秒間 |
| 200m | フィニッシュラインから50m手前 (第1レーン横) |
先頭の選手が直線に入った瞬間から10秒間 |
| 100mハードル 110mハードル |
フィニッシュラインから50m手前 (第1レーン横) |
スタートの瞬間から13秒間(女子100mH)/15秒間(男子110mH) |
| 走幅跳・三段跳 | 踏切板から40m手前の助走路脇 | 選手が風向風速計の前を通過した瞬間から5秒間(助走が40m未満の場合は走り始めた瞬間から) |
直線で一斉に走る100mとコーナーから加速して直線に入る200mでは、風を計測するタイミングが異なります。200mでスタートから風速を測定しないのは、カーブ(曲走路)の部分では走る方向が常に変わり、「追い風」や「向かい風」を正確かつ公平に測定できないからです。
なお、風が吹く方向によって選手への影響は変わってきます。100mや200mの後半の直線において、強風でも「横から吹く場合」や「斜め方向から吹く追い風の場合」は、それがタイムに反映されないケースも珍しくありません。逆に200mのカーブの部分では、コーナーの頂点から直線に入る際に選手の背中を真っすぐに押す風であればタイムの短縮につながる可能性があります。
風はどのように測られている?セイコーの風向風速計技術
photo by AFLO SPORT
陸上競技の公平性を守り、選手たちが挑む一瞬のドラマを正確に記録するためには、風向風速計の精度と信頼性が欠かせません。一般的な風速計といえば、プロペラやカップが回転して風速を測る仕組みを想像するかもしれません。しかし、陸上競技の現場で使われているセイコーの風向風速計には、競技計測に求められる高度な技術が凝縮されています。
超音波技術で「全方向」の風を瞬時にとらえる
セイコーが陸上競技で使用している風向風速計には、超音波を用いて風速と風向を計測する技術が搭載されています。内部で超音波を発生させ、風によって変化する超音波の伝わる時間を利用して、風の強さと向きを算出します。可動部(動くパーツ)がないため、風の吹き始めや一瞬の風向きの変化にも高い応答性を発揮し、360度あらゆる方向から吹く風を正確に捉えるのも特徴です。
世界の舞台を支えるセイコーの計時計測
こうした精密な風向風速計をはじめ、スタート時の不正スタートを判別するピストルシステムや写真判定カメラなど、セイコーの計時計測機器は世界陸上をはじめ数々の国際大会で採用されています。過酷な環境下でも正確に記録を計測し続ける技術力。それらはすべて、アスリートが限界に挑む「その一瞬」を正確に刻み、公平な勝負の場を支えるために磨き上げられたものです。
「風」を知れば、勝負がさらに面白くなる
陸上競技は、選手の努力や戦術だけでなく、目に見えない「風」も勝負を左右するシビアで奥深い世界です。風が吹く方向や強さは、まさに時の運。これから陸上観戦をする際はタイムや順位だけでなく、画面に表示される風速にも注目してみてください。一瞬の風を味方につけた選手の走りや、向かい風に立ち向かう力走の背景にある物語が、より深く感じられるかもしれません。
※本記事の一部には、当社による調査結果および監修者の見解が含まれています。
元陸上競技選手
朝原宣治
1993年、100mで日本人初の10秒1台となる10秒19を記録する。初出場となった1996年アトランタ大会の100mでは日本人として28年ぶりに準決勝進出を果たし、翌1997年には日本人初の10.0秒台(10秒08)をマークするなど陸上・男子短距離界をけん引。2008年北京大会の4×100mリレーでは、悲願の銀メダルを獲得した。現役引退後の2010年には、次世代育成を目的として陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」を設立。地域貢献活動の一環でもあり、引退後も自身のキャリアを社会に生かそうとチャレンジを続けている。2024年9月に開催された全日本マスターズ選手権では、52歳で10秒93をマークした。