文 久下真以子
「フィニッシュまで一番に到達したい――」という願望を、短距離走を経験したことのある方なら、誰でも一度は抱いたことがあるでしょう。幼いころのかけっこから、国際大会での熱戦まで、スピードを追い求める短距離走は、いつの時代でも、世代を問わず多くの人々の関心を集めてきました。
中でも、短距離走の花形種目として高い人気を誇るのが100mです。わずか10秒前後で勝敗が決まってしまう儚くも美しい種目と言えます。一見すると、100mを駆け抜ける選手たちは皆、同じようなフォームに見えるかもしれませんが、実はその走りには個人ごとの特徴があります。その違いは、各選手の「ピッチ(脚の回転数)」と「ストライド(一歩分の長さである歩幅)」によって生まれます。ここでは、ピッチとストライドの観点から、100mを速く走るためのコツについて考えてみましょう。
「速度=ピッチ(回転数)×ストライド(歩幅)」のシンプルな式
短距離走で速く駆け抜けるためには、スピードが生まれるメカニズムを知ることが大切です。その基本となる考え方の1つが、「速度(m/秒)=ピッチ(歩/秒)×ストライド(m/歩)」というシンプルな計算式になります。具体的に説明すると、【1秒間に脚を何回転動かせるかという「脚の回転数」】である「ピッチ」、【一歩でどれだけの距離を進めるかという「歩幅」】が「ストライド」です。
たとえば、ピッチが4.5歩/秒、ストライドが2m/歩であれば、計算式としては「4.5×2=秒速9m(9m/s)」。これが選手の走行スピードとなります。実際のレースでは加速や減速も含まれますが、この計算式は、走りのパフォーマンスを考えるうえでの基本と言えます。
ピッチの数値を高めるには、できるだけ速いテンポで脚を回転させ、地面に足がついている時間(接地時間)を短くして素早く蹴り出すことが必要です。この時、両足が地面から離れている時間(滞空時間)も短くなる傾向があります。一方、ストライドを伸ばすには、一歩における滞空時間を長くしたうえで、空中で大きく前に出る推進力を高めることが大切です。それぞれの走りの特徴を踏まえたうえで、ピッチを高めるべきなのか、あるいはストライドを伸ばすべきなのかを検討しましょう。
また、ピッチかストライドのどちらか一方ではなく、両方の数値を向上させることがスピードを生むうえでは理想と言えます。しかし、この2つには「どちらかを伸ばすともう一方が下がりやすい」という関係(いわば反比例の関係)があります。たとえば、ピッチを上げすぎると歩幅が小さくなりやすく、反対にストライドを広げることを意識し過ぎると回転が追いつかなくなる傾向にあるからです。そのため、ピッチとストライドの両方を向上させることは至難の業と言えるでしょう。
100mなどの短距離走では、足の回転数を重視する「ピッチ型」、一歩の歩幅を大きくとる「ストライド型」、その両方の特徴をバランスよく取り入れた「中間型」の3つに分けられることが一般的です。短距離走のタイムを速くするには、選手個々の体格や筋力、得意とするリズムに応じた走り方を見極めることが重要になります。
Team Seikoの山縣選手はピッチ型の代表例

写真 落合直哉
ピッチ型かストライド型かという選択は選手の個性によって異なり、それぞれのタイプによって走り方の特徴も大きく変わります。また、どちらのタイプになるかは、筋力のほか、身長や脚の長さといった体格的な要素も大きく関係しています。
たとえば、Team Seikoのメンバーでもある山縣亮太選手は、「ピッチ型」の代表的な選手です。2021年6月の布勢スプリントでは、1秒間に約5歩という非常に高いピッチで走り、9秒95の日本新記録をマークしました。脚の回転数が速く、地面をリズムよく蹴って前に進む効率的なフォームは、ピッチ型ならではの特徴です。スタートからテンポの良い動きでスムーズに加速し、最後までスピードを保ちながら走り切る彼のスタイルは、ピッチ型の選手にとって参考になりますよね。
一方、ストライド型の走りは、一歩で大きな距離を稼ぐダイナミックなフォームが特徴です。男子100mの世界記録9秒58の記録が出た際のストライドの大きさは、驚異の2.75m/歩。わずか41歩で100mを走り切ったと記録されています。ストライド型の走りを実現するには、脚の長さや身長の高さなどの体格面も大きく影響するので、選手自身が自らの特徴を正確に理解し、タイムを出しやすい走法を確立することが大切です。
このように、走り方にはそれぞれの個性があり、ピッチ型やストライド型といったタイプによって、スピードの出し方も大きく異なります。一見すると似たようなフォームでも、どの動きがスピードにつながっているかは選手ごとに個人差があるため、走法の個性を見比べるのも面白いポイントです。
トップアスリートの走りには、自身の特徴を最大限に活かす工夫が詰まっています。レースを観戦する際には、単にタイムだけでなく、脚の回転の速さ(ピッチ)や一歩の大きさ(ストライド)、動きのリズムなどにも注目してみると、陸上競技の奥深さをより楽しめるかもしれません。

元陸上競技選手
朝原宣治
1993年に日本人初の10秒1台となる10秒19の当時の日本記録を樹立。初出場となった1996年アトランタ大会の100mで日本人としては28年ぶりに準決勝進出を果たした。北京大会の4×100mリレーでは、悲願の銀メダルを獲得した。現役引退後の2010年に次世代育成を目的として陸上競技クラブ「NOBY T&F CLUB」を設立。地域貢献活動の一環でもあり、引退後も自身のキャリアを社会に生かそうとチャレンジを続けている。2024年9月に開催された全日本マスターズ選手権では、52歳で10秒93をマークするなどそのスピードは衰えることを知らない。