文 堀部真由美
人類は長い歴史の大半を、狩猟採集の暮らしで過ごしてきました。そんな狩猟の時代に、獲物をしとめるために使われていた「投槍(なげやり)」がルーツの種目が、「やり投げ」です。遠くの獲物を狩るには、やりをできるだけ遠方に投げる技術が不可欠であり、その技術や知恵が現代のやり投げの投法にも受け継がれています。
現在の男女やり投げの世界記録は、男子98m48(1996年)、女子72m28(2008年)です。過去には100m以上の記録が出たこともありますが、1986年にやりの重心に関する規格が改定されて以降、100m以上の記録は出ていません。そのため、100mに迫る現在の男子の記録は、今後も破ることが困難な「不滅の記録」と呼ばれています。
では、この男子世界記録を超える約100mの距離までやりを投げるためには、どんな投てきが必要なのでしょうか。やりを遠くまで飛ばすために欠かせない、「速度」と「角度」という2つの要素に注目し、力学的な視点からそのメカニズムを解説します。
投てき種目の飛距離を決める3つの要素とやり投げ100m超の条件
投てき種目において飛距離を決める要素は、「速度」「角度」「高さ」の3つです。これらを専門的な視点で捉えると、「初速度(リリースの瞬間のやりの速さ)」「投射角(リリース時のやりの角度)」「投射高(リリース時の地面からの高さ)」となります。
筑波大学陸上競技研究室の研究結果(※)によると、この3つの中でやり投げにおいて影響が比較的小さいのが「投射高」です。投射高は選手の身長や、リリースされた(投げられた)瞬間の腕の高さによって決まりますが、飛距離への影響はそれほど大きくありません。そのため、体格が有利とされる他の投てき種目と比べて、やり投げは体格に恵まれていない選手でも記録を狙いやすい傾向にあるのです。
では、やり投げで100m以上の記録を出すためには、「初速度」と「投射角」の条件がどれほど重要なのでしょうか。投げた飛距離に最も大きな影響を与えるのは「初速度」です。やりをリリースされた瞬間のスピードが速ければ速いほど、飛距離は伸びると考えられています。
筑波大学陸上競技研究室のデータによれば、
・80m以上を投げるには秒速27.9m(27.9m/s)
・85m以上では秒速29.1m
・90m以上では秒速30.2m
が必要と推定しています。
つまり、100mを超えるには秒速31m以上の初速度が必要だと考えられます。この高い初速度を生み出すため、選手たちは助走によって勢いをつけ、投げる瞬間に体をピタッと止め、全身をしならせてエネルギーをやりに伝えるという高度な技術を日々磨いています。
次に「投射角」についてですが、やりを遠くに飛ばすには、適切な角度内にコントロールすることも求められます。理論上、空気抵抗のない環境でもっとも遠くに飛ばすための理想的な角度は45度です。しかし、実際のやりは軽くて細長く、空気抵抗の影響を強く受けるため、やや鋭い30~40度の間が現実的な最適角度になります。
筑波大学陸上競技研究室の見解では、
・85m以上を投げるには37度
・65m以上では36度程度
が理想的な投射角だとされています。
つまり、初速度秒速31m以上で、投射角37度を実現できれば、夢の100m超えの投てきも、決して不可能ではないのです。
※やり投のパフォーマンスを決定する要因(筑波大学 陸上競技研究室)
https://rikujo.taiiku.tsukuba.ac.jp/column/2014/20.html
飛距離アップはやりを「やや下向き」にした揚力を活かした投法が理想

砲丸投げなど他の投てき種目とやり投げの最たる違いは、空気や水の流れから受ける力である「流体力学」に左右される点です。つまり、やりを遠くへ飛ばすには、風や雨といった天候の条件や、空気抵抗といった空気の流れによる力も考慮しなければなりません。やり投げでは、空中を飛ぶやりに対して、やりが後ろに押し戻される「抗力」、やりを上に押し上げる「揚力」という2つの力が働きます。これらの力が、記録にも影響を与えます。
そうした空気抵抗を利用して記録を伸ばすには、やりの投げ方を意識することが大切です。具体的には、「投射角(やりの飛行方向)」と「姿勢角(やり本体の向き)」を近づけることが理想とされます。この2つの角度の差を「迎え角」と呼びます。迎え角が大きいと、やりは空気抵抗を強く受け、スムーズに飛ばなくなります。一方、迎え角が小さく、やりの向きが飛ぶ方向にぴったり合っていると、空気の流れに乗ってやりはよりスムーズに、遠くまで飛ぶ様子がイメージできるでしょう。

さらに望ましいのは、「迎え角」をゼロ、つまり投射角と姿勢角を完全に一致させるのではなく、迎え角をわずかに下向きに保つことです。このわずかな角度のコントロールによって、やりの飛距離をさらに伸ばせる可能性があります。
反対に迎え角が大きすぎると、やりの先端が上を向きすぎてしまいます。その結果、空中に留まる時間は長くなりますが、空気抵抗(抗力)も大きくなり、前に進む力が弱まってしまうでしょう。場合によっては、やりが後ろ側から着地してしまい、ファウル(無効投てき)となるリスクもあります。
また、迎え角が小さすぎると、やりの先端が下を向きすぎてしまいます。そのため、空中で浮き上がる力(揚力)を得られず、すぐに地面に落ちてしまって、十分な飛距離が出せません。
最適な状態は、迎え角がほんの少しだけマイナス、つまりやりの向きが飛ぶ方向よりも少しだけ下を向いている状態で投げることです。この角度なら、飛行の前半では空気抵抗を抑えられ、後半では空気の流れを受けて揚力が働き、やりの落下を遅らせることができます。スピードが落ちてくる終盤でも、揚力のおかげでさらに飛距離を伸ばせるのです。
やり投げで記録を出すには、「できるだけ速く、適切な角度で投げること」が重要になります。選手たちは、助走からリリースまでの動きを細かく調整しながら記録に挑んでいます。観戦の際は、「初速度」や「姿勢角」に注目してみると、選手たちの高度な技術がより楽しめるはずです。

元やり投げ選手・指導者
山本雅司
三重県出身の元やり投げ日本代表。中京大学時代に全日本学生陸上競技選手権を制覇し、1989年全日本実業団選手権優勝。1990年アジア選手権日本代表、1991年オーストラリアオープンでは2位に輝くなど国際大会でも活躍した。引退後は40年以上連続インターハイ出場を果たしている名古屋大谷高等学校陸上競技部の顧問として後世の育成に励んでいる。競技力向上と人間形成を両立させる指導がモットー。