

文 神原英彰(Creative2/THE ANSWER)
写真 落合直哉
ヘアメイク 長谷川真美
このほどTeam Seikoに加入した陸上女子中長距離の25歳・田中希実。1500mと5000mの日本記録を保有するトップランナーが、2025年最大の目標に見据えるのが9月の世界陸上だ。舞台は国立競技場。実に34年ぶりの東京開催で、さらなる飛躍を思い描いている。20歳で2019年のカタール大会 に初めて出場して以降、2022年のオレゴン大会、2023年のブダペスト大会に続いて目指す4度目の出場。日本のファンに走りを観てもらえる機会とあって、田中の想いも熱い。
今回の東京世界陸上で初めて陸上競技を身近に感じたり、観戦したりする人も少なくないだろう。果たして、世界陸上は選手たちにとって、どんな大会なのか。ほかの大会とは異なると感じる魅力、出場した過去3大会で刻まれた記憶、そして、東京大会で表現したい姿について語ってもらった。
「予選から決勝かのような…」真剣勝負を何回も楽しめる世界陸上

写真 落合直哉
2025年9月。人間の限界に挑戦するアスリートたちが、東京で一堂に会する舞台がやってくる。
田中は言う。
「世界陸上はもしかしたら本当の陸上ファンの記憶にしか残らないかもしれない大会。でも、だからこそ、そこで勝つということに価値を見いだしている。選手も陸上を愛して、観る側も陸上を愛して……たくさんの『好き』が詰まった大会かなという印象はあります」
陸上を愛する者たちの熱が結集された世界最高峰の戦い。それが、世界陸上だ。
陸上界にはワールドアスレティックスが主催し、世界ランクの上位選手のみが参戦できる14試合のリーグ戦、ダイヤモンドリーグ(DL)が存在している。DLは決勝の一発勝負で行われるが、世界陸上には予選がある。その分、選手もタフさが求められ、波乱も起きやすい。
「世界陸上は予選を超えないと、ファンが『この選手同士が戦って欲しい』というメンバーが揃うかさえわからない。選手側もどの組になるか、予選からドキドキ。組によって(メンバー構成が)『外れ』『当たり』が生まれるところも面白い。逆に選手としてはたまったもんじゃない部分もあるのですが(笑)、最近は着順+αのタイムで拾われることがなくなり、予選から決勝かのようなバチバチの戦いが見られる。真剣勝負を何回も楽しめるところが魅力かなと思います」
3度経験した世界陸上「入門編になったのはドーハ」

写真 落合直哉
田中は3度、世界陸上を経験している。
19歳で初出場したドーハ大会は5000mで予選を突破し、決勝進出。14位ながら世界を知った。コロナ禍の影響で1年順延された2022年オレゴン大会は主戦場の1500m、5000mの2種目のみならず、800mに挑戦。10日間で5レースという過酷な日程ながら、5000mで2大会連続の決勝進出を果たし、12位に入った。
そして、2023年ブダペスト大会は1500mは準決勝敗退したが、5000mは予選で14分37秒98という従来の記録を14秒86も更新する日本新で突破し、決勝では日本人26年ぶりとなる8位入賞の快挙。世界陸上とともに成長し、世界との距離を縮めてきた歴史がある。10本以上のレースを走った世界陸上で一番の記憶とは。
「今の私にとって、世界陸上と世界の陸上界のイメージに対する入門編になったのは、ドーハかなと思います」と明かした。

写真 落合直哉
今や800mからマラソンまで出場する鉄人シファン・ハッサン(オランダ)が複数種目の挑戦を始めて1500mと10000mで2冠を達成し、まだ22歳だったコンスタンツェ・クロスターハルフェン(ドイツ)が5000mでメダルを獲得。アフリカ勢の主戦場だった女子中距離に風穴を開け、地殻変動が起き始めた大会だった。
「どんな人種でも戦えると希望をもらいました。加えて、記録や順位、メダルというただ目に見えるものを追うだけじゃなく、個人がしたい挑戦をする舞台なんだと教えてもらいました。それが、私にとっての世界陸上のイメージです。私も決勝に残り、ハッサン選手やクロスターハルフェン選手と自分の脚で走れた。しかも調子が一番良いという自覚を持てる状態だったことが楽しかった。端から端まで楽しかったのは、ドーハの世界陸上だけかなと思います。
他の世界大会はプレッシャーや自分自身の暗示もあり、絶好調という認識は持てないまま、ちょっと不安の方が大きいまま走って、走るにつれて調子が合ってきたり、精神力で何とか覆したりでしたが、それはやっぱり苦しみを伴う作業なので。ドーハ大会は何も考えなくても、勝手に足がスイスイ動いてくれるのが、ただただ世界に挑戦していくだけなのが、すごく楽しくて。今も、あの時の楽しさを追い求めながら走っているんだなと思うこともあります」
そんな経験を経て、今の彼女がある。
東京大会はバチバチの戦いに「もし、そこに私が入っていけたら…」

写真 落合直哉
田中が特徴的であるのはやはり、1大会で複数種目に挑戦していること。
「一つに絞ったら、もっと戦えるのに」。そんな周囲の声が聞こえてくるのも事実。しかし、本人は言う。「1つの種目に絞ったところで今のところは戦えない自覚がある。何種目走っても、結果は同じ。それなら自分のやりたいことをやった方がいい」。常に自らを俯瞰し、自分のやるべきことにフォーカスするのが田中らしさだ。
「一般的には走れば走るほどバテて次のレースに響きますが、私の場合、たくさん出る方が感覚は掴みやすい。普段は怖くて、なかなか踏み込めない部分があるけど、体もしんどい状態に持っていく方が諦めがつく。開き直って全力を出すしかないと、一本一本の全力を注げる感覚が楽しくて、そこを追い求めてやっているのかな」
日本はどちらかといえば、ひとつのことに打ち込み、犠牲を払うことが美徳とされる文化があった。
二兎を追うものは一兎をも得ず。何か得たいなら、何かを捨てる。そんな目に見えない空気は、窮屈ではなかったのか。田中は頷きながら「私も高校で駅伝メインの学校に入学するので、ミドル系の種目を捨てなければいけないと思いました。長いものに巻かれる、そういう常識に引っ張られるところはありました」と正直に明かす。
「でも、気づいたら1500mでも自己ベストが出たんです。それなら(ミドル系の種目を)もっとやりたい自我 が出てきた。もし1500mの自己ベストが出せず、活躍もできなかったら、自分が本当にやりたいことを問いかけないまま、『駅伝でチームに貢献することが自分のやるべきこと』と思っていたかもしれない。気づくきっかけは人それぞれだと思いますが、もっと感受性を豊かにしたり自分の気持ちに正直になったりしてもいいんじゃないかなと思います」

写真 落合直哉
道なき道を歩んでいるからこそ、彼女の後にできた足跡は私たちに新たな気づきを与えてくれる。田中はそんなアスリートである。
今回の東京大会の開催は9月。シーズンの最後に開催されるため、世界の猛者が1年の集大成としてバチバチの戦いを繰り広げる。「どこか別世界の人間を見るように、それこそ日本の方にとってはサーカスを観るような楽しみ方になるかもしれません」と言いながら、田中は世界に挑むアスリートとしての矜持をうかがわせる。
「もし、そこに私が入っていけたら、初めて本当の日本人の可能性を広げることにも繋がる。みんなスタートラインは一緒で、上がるも下がるも、自分次第。努力次第で、いくらでも成長できることを私を通して見せられる大会にしたい。そのためには結果や、世界のトップの選手たちと渡り合うことが大前提。今は努力している過程だけしかお見せできないので、努力した先をちゃんと答えとして示せるのが、東京世界陸上であってほしい。それが私の願いです」
2025年9月。日の丸の誇りを背負い、国立競技場のトラックを駆け抜ける。

陸上競技・中距離選手
田中希実
1999年9月4日、兵庫・小野市生まれ。ランニングイベントの企画・運営をする父、市民ランナーの母に影響を受け、幼い頃から走ることが身近にある環境で育った。中学から本格的に陸上を始め、西脇工高(兵庫)に進学。同志社大を経て、豊田自動織機へ。2023年4月にNewBalance所属アスリートとして プロ転向。2021年東京五輪1500mで日本人初の8位に入賞するなど、複数種目で日本記録を保持する。趣味は読書。好きな本のジャンルは児童文学。とりわけ現実世界に不思議が入り混じった「エブリデイ・マジック」が大好物。