

文 大西マリコ
写真 落合直哉
ヘアメイク 長谷川真美
陸上、競泳などタイムで順位を争う競技のメンバーを中心としたTeam Seikoに、レスリングのメンバーが加わった。その名は尾﨑野乃香。女子68kg級日本代表として、2024年夏にパリの大舞台に立つ注目度急上昇中のレスラーだ。
マットの上では世界の頂点を争う尾﨑だが、普段は慶應義塾大学でイスラーム文化を中心に勉学に励む大学生でもある。まさに"文武両道"を体現する優等生だ。「ここまで最短でチャンスをつかんでこれたので、21歳で世界チャンピオンになりたい。」と堂々と目標を語れる自信の源とは――。若さに似合わぬ達観した振る舞いが魅力のレスリング界のニューヒロインの、競技からプライベートに至るまでその内面に迫った。
生涯を捧げる競技、レスリングとの出会いは7歳

レスリングを始めたきっかけはテレビで観戦した試合。当時7歳ながら運命めいたものを感じたという
写真 落合直哉
レスリングを始めたきっかけを教えてください。
7歳の頃に浜口京子さんがレスリングをしている試合を、テレビ観戦したのがきっかけです。初めて見た時、マットの上で女性同士が戦っている姿に圧倒されたのと同時に、強く惹かれたのを覚えています。すぐに両親に「この競技をやってみたい!」と言って始めました。
レスリングを始める前はダンスやテニス、水泳などいろいろな習い事をしていたのですが、幼いながらにどの競技よりもレスリングが合うと運命めいた感じがありました。きっと『相手と自分の体だけで戦う競技』であることが自分に合っていたんだと思います。
レスリング大国・日本において代表として国を背負う誇り、また、母校を代表して出場することについてのお気持ちを聞かせてください。
日本での女子レスリングは、金メダルのイメージです。全階級で世界の頂点を期待されている重圧も感じますが、世界で一番練習している国だと自負していますので、自信を持って戦いたいと思います。
個人的には、重量級で外国勢を倒してトップに立ちたい強い想いがあります。それと同時に、慶應義塾大学からはまだ女子の金メダリストが出ていないので、初の快挙を狙いたいです。日本代表として、そして母校の代表として、2つの重要な看板を背負っている自覚と誇りを胸に戦っています。
62kg級、65kg級で活躍されてきましたが、パリの大舞台には68kg級での出場になります。階級の違いについてはどう感じていますか?
62kgの時と比べて階級が上だからスピードが落ちたとか、自分の中でネガティブな変化はほとんど感じていません。むしろスピードはそのままに階級とともに力強さが増して、レベルアップを遂げた感覚です。自分の成長幅が広くなっているし、68kgの階級が合っていたと思うほど良い体づくりができていると感じます。
体重を増やすのは少し大変でしたが、まずは食事量を増やすことを徹底しました。他にも日々のトレーニングと練習量を増やして筋力アップでの体重増に成功しています。

選考会ではわずか10秒での大逆転劇を演じた尾﨑。レスリングも時間感覚が重要な競技だ
写真 フォート・キシモト
パリの大舞台への代表選考会では、試合時間残り10秒の逆転劇が印象的でした。改めて、“勝敗を分けた10秒”はどんな時間でしたか?
あの10秒は一度4秒まで減った時間が、9秒89まで5秒ほどプラスされたことで少し心の余裕ができました。普段から負けている状況で点数を取りにいくシチュエーションの練習をしていたので、冷静さを保てていました。もちろん、焦りもありましたが。ただ、「もうこれは行くしかない!」という決意と、「まだイケる!」という確信がありました。誰かが背中を押してくれているような不思議な感覚がありました。
10秒足らずの時間で2点を取り返せたことは、自分に対する大きな自信となっています。「自分は土壇場で逆転できる選手!」というメンタルが、今後の試合でも糧になるはずです。
尾﨑選手が思う、レスリングの魅力はどんなところですか?
勝負の残酷さと美しさを選手たちが表現しているところが、レスリングの魅力です。試合後に勝った選手のガッツポーズや喜びの表情にはこれまでの努力や頑張りが凝縮されています。一方、負けた選手の悔しがる姿もスポーツの厳しさを物語っています。ブザーが鳴った瞬間のマット上のコントラストにこそ、レスリングの真の魅力が詰まっていると思います。そして、その感動は見ている人にも強く伝わっているはずです。
個人的には、努力を積み重ねて極めたい技を何度も練習し、それが試合で成功したときの喜びがたまりません。小さな目標を一つずつ達成していく過程が楽しくて好きです。この努力と達成の繰り返しもレスリングの魅力だと感じています。
Team Seiko加入への想い。先輩の活躍が励みに

豊田ら慶應義塾大学にゆかりのある選手が多いTeam Seiko。尾﨑も先輩たちの活躍が刺激になっている
写真 フォート・キシモト
Team Seikoに加入した感想を聞かせてください。
レスリングの試合中にも、セイコーのタイマーなどの機材を常に目にしてきました。アスリートを支えているカッコいいイメージがあります。そんなセイコーの少数精鋭のアスリート集団・Team Seikoに加入できて嬉しい気持ちでいっぱいです。
レスリングは10秒で逆転することが可能ですし、もっと短い時間で逆転することもあります。『時間が大切な競技』であるレスリングと、『時の会社』であるセイコーには共通点があり、Team Seikoへの加入にシンパシーを感じました。
Team Seikoメンバーの印象についてはいかがですか?
各メンバーの意志の強さを感じます。私もレスリングの競技を続けるうえで、これまで進路については意志を持って決めてきました。出稽古が多かったり、近くに仲間がいなかったりと大変なことも多く、意志が強くなければやっていけない環境にいます。Team Seikoのみなさんもチームとしての共通の練習場所がない中で、それぞれが自分を律して成果を追求しながら素晴らしい成績を残していることを聞きました。意志の強さが求められる環境での活躍は励みになりますし、私も先輩方のように強くなり、負けじと好成績を残していきたいです。
メンバーには同じ慶應義塾大学で同学年の豊田兼選手がいますが、まだお会いしたことがありません。同じキャンパスにいるはずなので、これからの交流を楽しみにしています。

将来のわくわくスポーツ教室 レスリング編の開催に興味を示す尾﨑。競技普及と次世代育成の両立に意欲的だ
写真 落合直哉
セイコーはアスリート支援活動に加え、小中学生を対象としたわくわくスポーツ教室を開催するなど、次世代育成にも力を入れています。その点に関してどんな印象をお持ちですか?
Team Seiko初のレスリング選手ということで、将来的にわくわくスポーツ教室で講師をやってみたいです。レスリングの競技人口を増やしたいですし、レスリング界の役に立ちたいと本気で思っています。競技をより多くの方に知ってもらうきっかけにもなれたら嬉しいです。
尾﨑選手の素顔に迫る。一問一答インタビュー

レスラーとしての尾﨑は試合中も常に冷静であり、その場面での最善な選択肢を判断する能力に優れている
写真 落合直哉
頭脳明晰なレスラーとして注目される尾﨑だが、その秘訣とは――。また、プライベートの尾﨑はどんな素顔を秘めているのか。尾﨑の素顔に迫るべく、一問一答インタビューを実施。レスリング編とプライベート編の2つのテーマにおいてストレートな思いを語ってもらった。
【レスリング編】
レスリングをやっていて楽しい瞬間、厳しいトレーニングが報われる瞬間は?
厳しいトレーニングが報われる瞬間は、やはり目標にしていた大会で優勝した時に限りますね。楽しいのは、実は疲れた瞬間です。自分を追い込むことが好きなので、厳しい練習をして疲労が溜まり、「もうレスリングできない!」と思うくらい疲れることに楽しさを感じます。トレーニング自体が好きというわけではありませんが、トレーニングを頑張って体が疲れている状態が好きなんです(笑)。
レスリング選手としてもっとも大切にしていることは?
自分と対話することです。今の自分の状態や気持ちを常に確認し、紙に書くことで競技や日々の生活に正しく向き合えているかを自問自答しています。

考えを整理する際は紙に書くことを重視しているという尾﨑
写真 落合直哉
試合前や、前日のルーティーン(ゲン担ぎ、習慣)はありますか?
特定のルーティーンやゲン担ぎはありません。その場その場で柔軟に対応したいので行動自体を決めることはしませんが、常に考えて行動することは意識しています。
尊敬している選手、目標としている選手、一目を置いている選手はいますか?
イランのハッサン・ヤズダニ選手を尊敬しています。圧倒的な強さと、プレッシャーに負けずに実力を発揮する姿に憧れています。私も「圧倒して勝ちたい!」という思いが常にあるのと、国民の英雄としてのプレッシャーの中でも負けない姿を見て、「彼のような選手になりたい!」と思っています。

真面目で勤勉な尾﨑だが、プライベートではどんなオフを過ごしているのだろうか
写真 落合直哉
【プライベート編】
大学生としてはどんな日々を送っていますか?
イスラーム文化の研究会に所属しています。都内のモスクで炊き出しを手伝ったり、ムスリムの知識を深める朗読会に参加したりしています。将来はイランに行って現地の状況も知りたいと考えています。尊敬しているハッサン・ヤズダニ選手の出身国であるイランはレスリングの強豪国で、彼らの生活や文化についても興味を持ち学び始めました。
高校での成績はオール5。現在も学業とレスリングに励んでいますが文武両道の秘訣を教えてください。
時間を有効的に使うことを意識しています。課題は後回しにせずコツコツと取り組み、授業も頑張って聞くようにしています。その瞬間を大切にすることが秘訣です。
オフの日はどのように過ごしていますか?
2匹の愛犬(トイプードルとボロニーズとトイプードルのミックス)と過ごすことが最高の癒しです。車で遠出したり、自然の中で過ごしたりすることを楽しんでいます。お台場の海や皇居を散歩したり、最近は箱根に出掛けたりしました。疲れ切って何も考えられない状態で、愛犬と遊んでいるのが一番好きな時間です。解放感があり、何も考えずにリラックスできる瞬間を大切にしています。
好きな食べ物、体づくりのために意識して食べている物はありますか?
体重管理のために食事量を調整することはありますが、基本的には好きなものを食べる生活を送っています。特に焼肉とチャーハンが好きです。
最後に今後の目標について教えてください。
夏の大舞台の切符を獲得するまで最短で来ているので、年齢的にもここで頂点に立ちたいと思います。まずは21歳でチャンピオンになることに注力します。これからは、Team Seikoの一員としてより影響力のある人物になりたいです。そのためにも、応援してくれる方々の前で、自分の目標を達成できるように精進していきたいと思います。

レスリング選手
尾﨑野乃香
小学校低学年の頃、テレビに映っていた浜口京子さんの姿にインスピレーションを受けレスリングを始める。小学校、中学校で全国トップ選手に君臨し、2018年からはJOCエリートアカデミー所属となる。2021年に大学に入学すると3年連続世界選手権に出場し、62kg級と65kg級で一度ずつ優勝を果たした。そして、2024年には68kg級でパリの舞台に立つ。