文 生島 淳
写真 近藤 篤
※こちらの記事は2020年3月に取材・撮影を行ったものです。
長く世界のスプリントの舞台で活躍してきた朝原宣治さん。
いち早く単身での海外遠征に出向くなど、時代を先取りしていたスプリンターだ。
現役時代のアプローチをうかがいつつ、いまはマスターズ陸上で活躍する朝原さんの感覚や貴重な経験談を聞いてみた。

30代半ばまで続いた現役時代
朝原さんは、本当に長く日本陸上界の100mの第一線で活躍されましたね。最初に日本記録を出したのは1993年、同志社大学3年のとき。タイムは10秒19でした。
最終的には30代半ばまで続けることになるとは想像もしていませんでした。2001年には10秒02までタイムが伸び、9秒台まであと少しというところまでだったんですけどね。
0秒01といえば、長さに直すとわずか10センチなんですよね。
あと数センチ速く走っていればという世界ですけど、その0秒01や数センチのために、トレーニングを積み上げていく種目なんです。
それから2008年のオリンピックまで現役を続けられて、貴重なメダルも獲得されました。
2008年まではギリギリの戦いでしたよ。本当は、地元大阪で行われる2007年の世界選手権をひとつの集大成と考えていましたから。

その大会では100mで準決勝まで進出されていましたね。
その時点でもう35歳になっていましたし、感覚としてはギリギリの感じでした。世界選手権が終わってすぐには、翌年のことは考えられなかったですね。
それでも、現役を続行された。
いろいろ葛藤がありました。周りからは、「あと1年くらいだったら行けるでしょ?」と軽く見られるかもしれませんが、そんな甘いものじゃないですからね。世界選手権が終わって気持ちは一度切れてますし、それから覚悟を持って、冬場のきついトレーニングをもう一度やれるかというと、尻込みしてしまうというのが本音でした。

冬場のトレーニング、それくらいきついんですか。
やってみます?(笑) スプリンターは走ればいいというわけではなく、ウェイトトレーニングなど、負荷が大きいものにもチャレンジしなければいけません。しかも、長い冬を越えてからトラックシーズンを迎え、さらに日本選手権で結果を残さないとオリンピックの代表にはなれないわけですから、心理的なハードルは高かったです。
精神的にはきつかったわけですね。反対に年齢を重ねることで、選手が成長できる部分というのはありましたか。
経験を重ねることでの財産は「現在の自分の状態を把握できる」ということでしょうね。僕はずっと、練習内容やその時の感覚を、メモとして書き残しておいたんですよ。
いつからですか。
それはもう大学の時から続けていました。だから、自分の「感覚」をつかむのは早かったと思います。

それは選手として、自分で作りだした「宝物」ですね。
そうかもしれません。なので、その時の自分に不足している部分が分かるんです。「練習でここを埋めていけば、次のレースでは計算が立つな」というのが把握できていました。
埋めていく、という作業は過去の自分のベストに近づけていくという感じなのでしょうか。
それは違います。僕は過去に出来たことを再現するのではなくて、「いまの自分が再現できること」にフォーカスしていくんです。
なるほど。昔の自分のイメージに引っ張られているわけではないんですね。
当然、大学生のときの自分と、35歳の自分は違いますからね。練習で必要なのは、いまの状態で最高のパフォーマンスを発揮するためには何が必要なのかを考え、それを練習で実践することでしたね。
「大学時代から自分なりの感覚はつかんでいた」

朝原さんのお話を聞いていると、現役時代から自立したアスリートだったことがうかがえます。
振り返ってみると、感覚をつかむのは早かった気がします。大学時代から自分なりの感覚はつかんでいたように思いますし、そのあと、単身でアメリカやドイツに渡って武者修行したり、自分にとってプラスになることを積み上げられた気がします。
1990年代に海外のレースに出ていく日本人選手は少なかったですよね。
自分でいうのもなんですが、僕は結果的に開拓者だったかもしれません。海外ではいろいろなことも経験させてもらいました。宿舎では同じエージェントの選手と一緒になることが多いんですが、日本人は僕ひとりでしたから、海外の選手と相部屋になるんです。

それは、結構気を使いそうですね。
意思疎通もままならないですし、生活習慣が違いますからね。いちばん驚いたのは、夜中なのに急にお祈りが始まったときです。
それはたまげたでしょうね。(笑)
世界は広いと改めて感じましたけど、海外を転戦していくことで、たいていのことには動じなくなりました。
その集大成が2008年のメダルだったわけですね。
本当に続けておいてよかったです。(笑)

マスターズ陸上など、40代での挑戦
いま、朝原さんはマスターズ陸上で走られていますね。
2008年に引退してから10年経っての復帰です。プレッシャーなく気軽に走るのって、気持ちいいし、楽しいですよ。嫌だったら出なくてもいいし。(笑) 現役時代に比べて自分の動きが遅すぎて、もどかしくて仕方がないです。
2019年には100mを11秒1で走ってらっしゃいます。十分に速いじゃないですか。だって、朝原さん47歳の記録ですよ。
でも、自己ベストから1秒も遅いんですよ。100mの1秒って、10mもの差になるんです。かなりの大差じゃないですか。
そう言われてみると、たしかに……。
単純に遅いのが嫌なんです。(笑) 自分が感じるもどかしさは、こうすれば体を動かせるのが分かっているのに、言うことを聞いてくれないところから来てます。でも、また走り始めてからようやく適切な練習の質、量が分かってきました。

やはり、10年前とは適切な練習が違うわけですね。
昔のイメージで質、量を追求してしまうと、疲労が残ってしまいます。そうするとケガのリスクも増えますが、そのあたりは現役時代の感覚が残っているので、現時点での自分に「最適化」した練習ができるようになってきました。同世代にライバルもいますし、負けられません。(笑) また走り始めてみたら、やっぱり気持ちいいですし、楽しいですよ。
2021年には関西圏で開催される「ワールド・マスターズ・ゲームズ」にチャレンジされる予定ですね。
大会のアンバサダーを務めさせてもらっています。いまのところ、陸上の100m、400mリレー、そしてなぜか野球にも入れてもらっています。(笑)

野球、ですか?
どんな競技でもチャレンジできるのがこの大会の良さなので、そうしたところもアピールしていきたいと思っています。でも、野球はスライディングが怖くて出来ないです。(笑)
40代でも、次々に新しいことにチャレンジされていますね。大阪では、地域に根差したクラブも主宰されていますし。
大阪ガスのサポートもいただいて、「NOBY T&F CLUB」で子どもたちを指導し始めてから、もう10年になります。これからの日本では、子どもたちが学校だけではなく、さまざまな形でスポーツに触れられるようになっていくのが理想だと思いますね。自分としても、いろいろなお手伝いができればと思っています。
「またトラックで選手たちが走る姿を見たい」

さて、本来であれば春から陸上のトラックシーズンが花盛りとなるはずでしたが、今年はコロナウイルスの感染拡大の影響もあり、延期が相次いでいます。5月に予定されていたセイコーゴールデングランプリも延期されることになりましたが、この大会の意義について教えてください。
僕たちにとってシーズンの中で大きな意味を持つのが日本選手権です。そこをターゲットにした場合、ひと月半ほど前にあるセイコーゴールデングランプリはとても重要な位置づけになってくるんです。選手としては、ある程度仕上げておき、ここでそれなりの結果を出す必要がありますね。

イメージとしては、最高のコンディションの7割くらいですか?
いや、この段階で9割くらいに上げておかないと勝負にならないでしょう。しかも、セイコーゴールデングランプリには海外から一流のスプリンターがやってくるので、緊張感をもってレースに挑めますし、最高の舞台といえますね。そこで出た課題を修正して日本選手権へつなげていくわけです。実は僕の引退レースも川崎でのグランプリだったんですよ。
そうでしたか。
北京の「4継」メンバーと一緒に走れて、しかもウサイン・ボルトから花束をもらって。(笑) 満員のスタジアムがいまでも忘れられないですね。一日も早く生活が平穏になり、またトラックで選手たちが走る姿を見たいですね。