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作 稲葉なおと
画 坂内 拓

音楽と海。どちらも常に動いてカタチを変える。
人生も同じ。もう二度とあの頃には帰れない。
でもだからこそ今が美しいのだ。
そう、今をはっきりと心に刻もう。
今日は娘の21歳の誕生日。
これまでの時間を想い、少しだけ泣いた。

2020年7月22日
葉加瀬太郎

※トキノシラベ最終話の公開日が7月22日

縁をくれた人

「さっきの話、だけどな」
宮島健夫は、娘にぼそりと話しかける。
リムジンバスに飛行機、さらにスピードボートに迎えのバス。4つを乗り継いでたどり着いた、澄みきった海を間近に臨むホテルだった。客室の広いバルコニーに置かれたデッキチェアに、ふたりで座っている。
夕食までにはまだ時間がある。陽は西に傾き、景色全体が茜色に染まり始めていた。
4年前、ひとり娘が健夫と同じ勤め先を辞め、フリーのライターになった。大学の建築学科を卒業し、大手建設会社に就職をしたのに、その席を自分で捨てて、食えるかどうかもわからない世界へと足を踏み出した。
唖然。
娘が辞表を出したことを、事後に聞いた健夫は、事態をすぐには呑み込むことができず、把握してからも信じることができなかった。
頭を熱くする健夫の前で娘は、平然と言い放った。
パパに相談したら絶対に反対されるのわかってたから──。
それからは顔を合わせば怒鳴り合う日々になった。やがて口をきかなくなり、数週間後に娘は家を出てしまった。
その娘と一緒に、こうしてふたりで同じ時を過ごしている。
健夫はどこか夢の中を旅しているような気持ちだった。

「さっきのって?」
「智美叔母さんのお陰という話だ」
「あぁ、はいはい」
こういう受け答えはママそっくりだなと健夫は思う。
「パパは、ママのお陰だと思うぞ」
「ママの?」
部屋の中から静かに音楽が聴こえている。
娘のお気に入りの曲だという。旋律を奏でるのはバイオリン。
好んで聴くのはロックばかりでクラシックは苦手な健夫も、つい身体を動かしたくなるようなポップでダンサブルなアレンジだった。
「智美叔母さんはナナも知ってるように、親戚付き合いを全然しない人だろ」
義理の妹なのに、健夫も片手で余るほどしか会ったことがない。
それも、立ち話をしたくらいで、どんな人なのかも実はよく知らなかった。
「でも、その智美叔母さんが、本当にママのことでは、よくしてくれたから……」
妻が亡くなったのは、本当にまったく突然だった。
悲しみを感じるよりも、ただ呆然とするばかりの健夫に代わって、通夜と葬儀、そして初七日から四十九日まで、多忙な中を取り仕切ってくれたのが、妻の妹・羽根村智美だった。
妻の葬儀の日。著名なバイオリニストであり、テレビでもたびたび眼にする芸能人にはとても見えないほどやつれ果てていたその顔が眼に浮かぶ。
その智美に、まるで秘書のように指示を仰ぎ、葬儀会社との段取りを進め、紹介された税理士さんとの打ち合せを進めたのが娘の七海だった。
「ナナが智美叔母さんと親しくなれたからこそ、ナナの取材も許してもらえたわけだろ。だったらそれはママのお陰だなと、つくづく思うんだよな」
健夫は自分の言葉に、胸が熱くなるのを感じる。
「ナナが物語を書けたのは、ママが元となる縁をつくってくれたんだなぁ、ってな」
黙って聞いていた娘が、ママのお陰もあるけど、と口にした。
「こうして、ここにパパと一緒にいられるのは、パパのお陰だって、私は思ってるよ」
「俺の?」
思わず大きな声が出てしまった。

同じ思いにつつまれて

娘は口の両端を持ち上げて、そう、とうなずく。
「私はあの小説書きながら、あぁ、これって小さいときにバイオリンを習っていなかったら、こうは書けなかったなぁ、って何度も思ったし、バイオリンだって、パパが絶対やめるなって、言ってくれなかったら、もっと早くやめちゃってたし、それだとやっぱり弾く人の本当の気持ちなんて、わからなかっただろうなぁ、って。パパのお陰だなぁ、って。
バイオリンだけじゃなくて、大学で建築を学んだだけじゃなくて、設計の実務を実際にパパの会社で経験させてもらっていたから、舞台建築の描写もパパのお陰で書けるんだなぁ、って、そう思ったし、それに……」
娘は健夫の顔を覗き込むようにする。
「智美叔母さんの取材だって、パパのお陰でしょ?」
「なんだ、それは」
はぐらかしたつもりなのに、動揺が顔いっぱいに広がるのを健夫は感じる。
「お義兄(にい)さんからの頼みごとなんて親戚になって以来初めてよ、って、智美叔母さんが苦笑いしてたって、ママが前に笑いながら教えてくれたよ。あの忙しくて、人付き合いの苦手なトモちゃんが姪の頼みを聞いてくれたのは、パパのお陰だからね、って」
パパのお陰、パパのお陰、パパのお陰……。
その言葉が耳の奥で反響するたびに、健夫の胸の温度が上がっていく。
娘がまだ幼いころからの、いくつもの出来事が、胸から溢れるほどに思い出されてしまう。
幼い娘を送り迎えした数々の習い事。父の日には毎年描いてくれた似顔絵のプレゼント。あれをもらえなくなったのは、ナナがいくつの時からだろう。
日々の勉強に受験勉強。掲示板をひとりで見に行ったナナの合格発表。気をもんだ就職。そして……。

おとうさんを書いた子供の絵 イラスト

その時だ。
「あ! あれ!」

娘が弾けるように立ち上がる。
水平線に沈もうとする陽を、まるで飛び越えようとするかのように跳ねる影。
2度、3度。
「見た? ねぇ今、見た?」
大きく見開いた眼を健夫に向ける。
健夫も立ち上がっていた。
背中にはまだ、ぞくりとした感覚が残っている。
「あぁ、見た」
「あれって、イルカだよね。そうだよね」
黙ってうなずく健夫に娘が言った。
「ママの夢って、なんだったか知ってる?」
「だからそれはみんなで──」
「私と一緒に7つの海を、以外に」
娘が健夫の答えを先回りする。
「以外に?」
「そう」
妻と娘は本当に仲がよかった。
娘の家出騒ぎで健夫と娘の関係が冷え切っていた時も、妻は常に娘の味方だった。だからこそ娘との関係を修復できたと健夫は今でも感謝している。
妻も娘には、夫には語れない本音を洩らしていたのだろう。
「いや……」
「わからない?」
「わかるわけないだろ」
不意に左腕が軽く持ち上げられた。
すき間に娘が腕をからめる。
娘の体温を感じた途端に、健夫は震えてしまいそうになる。

夕日にたたずむ父と娘 イラスト

「いつか……、みんなで……、ね」
娘が、ゆっくりと言葉を継ぐ。
いや、そうではない。言葉を詰まらせているのだ。
「イルカが、ね……、跳ねているような海をね……、みんなで、一緒に、旅したいなぁ、って……」
娘の顔を見る。
夕陽に輝くその顔は、溢れ出るものを懸命にこらえていた。
みんなで……、みんなで……。
健夫の眼の奥も、じんと熱くなる。
「……そうか」
水平線に触れた陽は、瞬く間に海の中へ溶け込んでいく。
見つめながら健夫は思っていた。
娘もきっと、同じことを考えているだろう──。

〈了〉

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稲葉なおと

稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。建築の企画・設計を手がけつつ紀行作家としてデビュー。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。日本建築学会文化賞受賞。作家デビュー20周年記念小説『ホシノカケラ』(講談社)がロングセラーに。日本の美しいホテル38軒の知られざる物語『夢のホテルのつくりかた』を今秋刊行(エクスナレッジ社)予定。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩いた体験を元に長編小説、旅行記、写真集、児童文学を発表し続けている。

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