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作 稲葉なおと
画 坂内 拓

一度は泊まっておきたい

部屋係の女性がふたり分の夕食の膳を並び終えるの待ちかねたように、スマホを構える。
アングルをあれこれ考えていると、夫の手が画面に入り込んだ。
「あ、さわらないで」
宮島良美(みやじま・よしみ)は急いで注意した。夫が膳の横に置かれた品書きを手に持ったからだ。
「なんだ、メニューもさわっちゃ駄目なのか」
浴衣に着替えた夫は言いながら、着物の女性と苦笑を交わす。
「すみませんねぇ」
夫がわざとらしく、彼女に頭を下げる。
「いえいえ」
笑顔になると細い眼がさらに細くなる部屋係の彼女の胸には、《ホソイ》と名札がある。
ぽっちゃりした体形との不釣り合いを、自己紹介のときに彼女は名札に手を添えながら笑いに変えていた。
「ホソイといいます。看板に偽りありで申し訳ございません」
良美は苦笑する夫からスマホの画面に眼をもどし撮影に集中しようとする。
「そういえばホソイさんの御出身は、どちらなんですか?」
夫は部屋係の女性とのんびり話している。

4年前。ひとり娘が家を出て独立した。
事の顛末が、当時の良美の胸には堪え難いほどの重荷になった。そのこころ休めになればと、良美は新たな趣味を見つけた。日常生活で見つけたものを写真に撮り、ちょっとしたコメントとともに自分のSNSページに載せることだ。
最初は離れて暮らす娘への近況報告のつもりだった。
それが毎回「今日も感謝。」という書き出しで載せていたら、娘以外からもコメントがつくようになった。音信不通だった同級生からも連絡が入った。家族についての、そして老いについての共通の悩みなどをざっくばらんに口にし合えるのは、何よりの気晴らしになった。

いつもは1週間に1、2回程度で更新をしていたのが、この2、3日は1日に3回も4回も新しい写真を載せている。
何十年ぶりだろう。考えても答えが出せないほど久しぶりに、夫とふたりで旅行に出ていたからだ。こうして箸をつける前に撮る2人分の料理の写真。売店で見つけた美味しそうなお菓子の写真。ロビーや部屋の写真、窓から見える緑の景色ももちろん何枚も撮っている。
昔は娘と一緒に家族3人でよく旅行をした。宿泊先はいつも、夫が勤める建設会社の保養所だった。料理もそこそこ美味しく、何より値段が安かった。
今回、旅行しようと提案したのは良美だったが、宿泊先を決めたのは夫だった。
また保養所巡りだろうと思っていたら、夫が予約を入れたのはホテルと旅館だった。学生時代から憧れていた建築家の設計した名建築旅館を巡る旅だという。
「死ぬまでに一度は泊まっておきたかったんだけど、独り旅なんてママが許してくれないだろうからな」
夫の言葉からは小さな優しさが伝わってきて、良美の胸はほんのりと温かくなった。

娘の内緒話 夫の内緒話

夫は建築家を目指して国立大学の建築学科に入学。卒業後は大手建設会社に入社し、設計部に所属した。
結婚式では仲人の役員から、宮島くんは設計部期待のエースですと紹介されていたが、建設不況になり、一時的にと上司に説得され営業部に異動。以来ずっと、営業畑でそこそこ出世をして来ている。
だがこころの隅では、設計への思いをずっとくすぶらせていたのだろう。娘が自分の会社の設計部に入社したときの喜びようは、良美が気恥ずかしさを覚えたほどだった。
ところがそのわずか3年後、娘は夫の会社を辞め、フリーのライターとして独立して家を出た。
行動に出る前に娘からは何度も相談を受けていた。パパには絶対内緒だからね、と念を押されつつ、その胸に芽生えた悩みも聞いていた。
大学で建築学科に進んだのも、就職で大手建設会社を選んだのも、自分が好きで選んだ道のつもりが、知らず知らずのうちに父親の喜ぶ顔が見たくて決めていたという。3年後に上司が替わり、ふと立ち止まって、自分自身は生涯を掛けて何をしたいのだろうと考えたときに、まったく別の仕事が胸に広がってしまったというのだ。
それが、執筆業だった。

家を出た後も、夫は娘の近況をいつも心配していることが、良美には痛いほど伝わってきた。けれどもまた、その心情を妻には悟られないようにしている夫の姿が痛々しくて、一度ちゃんと話をしないと、と思いつつズルズルと4年が過ぎてしまった。
今こそ話さないとと思い立ち旅行に誘ったのは、娘の近況にちょっとした変化が起きたからだ。
旅に出て既に4日目。
移動しながら、ぽつりぽつりと話をしていたが、肝心の「変化」についてはうまく切り出すタイミングが見つけられていなかった。今夜こそは、と良美は思っていた。
部屋係の女性が横に居てくれるのも、夫の機嫌をそこねないためには都合が良かった。
「ナナがね、新人賞に応募したのよ」
食事がひと通り終わって、ホソイさんの淹れてくれたほうじ茶を飲み始めたところで良美は切り出した。
「新人賞? なんの設計コンペだ」
「やだ、文学のよ」
予想通り、不機嫌の3文字が夫の顔一面に広がる。良美は「賞」の名前を口にする。
「それはすごいですね」
即座に反応したのは夫ではなく、ホソイさんだった。良美はちょっと誇らしい気持ちになる。
「あ、でも、内緒だからね。応募したことはパパには内緒ってことになってるから」
「パパに内緒の話をパパにしていいのか?」
「あ、そうよね。それじゃ、話はここまで」
夫は良美の言葉も耳に入らないのか、スマホを操作している。下唇を突き出し画面を見つめる表情は、娘とそっくりだと思う。
夫が眼を細めながら小さく唸った。
「受賞した人、有名な作家ばかりじゃないか」
どうやら賞の名称で検索したらしい。
「あ、賞について調べてたなんて、ナナには絶対内緒だからな」
「はいはい」
夫の言葉に良美は苦笑で返しながら、しみじみ思う。 
娘の内緒話と、夫の内緒話。
抱えたままにしないで、どこかうまいタイミングでそれぞれに話をするのが自分の役目なのだ。

部屋係の女性と宿の一室 イラスト

本当に久しぶりに

「それでは、いったん失礼させていただきます」
ホソイさんが丁寧に腰を追って襖の向こうに姿を消した。この後でまた布団を敷きにくるという。
「ホソイさんって、保つに、木曽街道の曽に、井戸の井って書くんだってな」
夫の言葉を良美は頭の中で漢字変換する。保曽井──。
「え? 細い太いの、細いじゃないの? あれ? でも、そんなこといってなかった? 保曽井さん自身が」
「そう思うだろ。思い出してみたら、最初に会って挨拶したときに彼女、看板に偽りありですみません、って言ったんだよな」
「あ、そうそう、そうよ、そう」
「彼女はウソはついてないわけだ」
たしかにその通りだ。ウソはついていない。ただ、こちらが勝手に思い込んで勘違いをしただけだ。
「でも、お客さんが、ちょっとした勘違いをしてくれて、それが着いたその日の緊張をほぐして、何か、思い出話のひとつにでもしてもらえればという、彼女なりの配慮から、あんなやりとりをしたらしくて」
「へぇ」
考えた上での自己紹介、ということなのか。
「ほんと、へぇ、だよな。お客さんにとって、宿の印象は第一印象が大事だから、どうやったらその印象を楽しく、着いてすぐにくつろいでもらえるようになるかって、自分なりに考えたんだって」
「そうなんだ……」
相づちを打ちながら、良美は内心びっくりしていた。夫はいつ、そんなことを聞き出したのだろう……。
「あ、でも、あの案内方法は、保曽井さんじゃなくて、保曽井さんの昔の上司が考えたんだって」
「案内方法?」
「思わず、最近の旅館はみんなそうなんですか? って聞いちゃったよ。そんなわけないのに」
「あの、ごめん、話の意味がまったくわからないんだけど」
夫は、にやりと笑う。
「この宿を設計した建築家は、庭の美しさをいかに部屋の中に引き込むか、訪れたひとに、いかに印象づけるかを考えたんだよ」
「あ、だから、ガラス戸も障子も、壁の中に引き込んで見えなくしてしまうわけね」
夫は満足気にうなずく。
「その建築家の思いを、少しでも印象深くお客さんに伝える方法はないものかと、宿の人たちが考えたのが、あの案内方法なわけだ」
「だから──」
夫が手のひらを見せる。先を急ぐなということだ。
「最近の旅館もホテルも、客室の中にあるドアとか、襖とか、奥にある障子とかカーテンとか、事前に全部開けておくんだよな。そのほうが入った瞬間に部屋の広さを伝えられるし、窓の外の景色や庭も一度に眼に入る。そんな理由からなんだろうけど、でもそれって、案内する人の手間省きにもなってるわけだよ」
なるほど、と夫のわかりやすい説明にちょっと感心する。
「ところが、この宿の人たちは考えたわけだ。庭の素晴らしさをお客さんの眼にもっと素敵に焼き付ける方法はないものかって。
そこで考えたのが、まずは襖も障子も全部閉めておいて、お客さんを案内しながら係の人が襖を丁寧に開けて、お客さんが座に着いて、気持ちが落ち着いたところで、ようこそいらっしゃいました、って挨拶をして、それから眼の前の障子1枚、また1枚、引き開けていくわけだ。
そうすると、お客さんのこころには、まるで劇場の幕が開いたように、広がる庭の景色がより鮮明に、美しく、印象づけられるわけだ」
「へぇ、いつ聞いたの? そんな話」
「いつって、ママがあちこち写真撮ってるときに、こっちは暇だから、保曽井さんにいろいろ教えてもらって」
笑って受け流すつもりが、頬の筋肉がうまく動かなかった。

「やっぱり宿は第一印象が大事だよな。一昨日のホテルだって、そうだっただろ」
「一昨日のって、あのビジネスホテル?」
駅から近く、便利さと宿泊料金の安さだけで選んだホテルだと良美は思っている。
「冷えたおしぼりを、あんな風にきちんと出してもらえるなんて、感動だったよな」
おしぼり……?
チェックインの際に出されたことは覚えているし、ほどよく冷えていたことは思い出せるが……、感動……?
「おしぼりとか出すビジネスホテルは最近は増えたけど、たいていはカウンター越しに渡されるわけだ。ところがあのホテルは、カウンターの向こうからわざわざスタッフが表に出てきて渡してただろう。ほら、デパートで店員さんが商品をレジのカウンター越しに渡さないで、表に出てきて渡すだろ、あれと同じ考えなんだろうけど、おしぼりをそこまで丁寧に出すホテルは初めてで、へぇって思ったわけだ」
「それも、スタッフの人に訊いたの?」
「訊かないよ。訊かなくても、へぇって気づくだろ、あれは」
私はそのとき、何をしていたのだろう……。
チェックインの手続きは夫に任せ、ロビーの写真を撮っていたこと思い出す。おしぼりは夫から、おしぼり置きごと受け取ったのだ。
同じ宿を泊まり歩いているのに、なんだか夫とは別の場所に泊まっているような気がした。
自分が見て、写真に撮り残してきたのは、表面的な美しさだけだったのではないか。
それにひきかえ夫は、見えている美しさの背景にある、働く人たちの心遣いにまで気を配っていた。
久しぶりに、本当に久しぶりに、夫のことを見直した気持ちになる。

「さてと」夫が不意に立ち上がる。
「もう一度、温泉に入ってこようかな」
「あ、それじゃ私も」
ふたりして浴衣の身繕いを直し、部屋の外に出る。
バイオリンのしらべが静かに流れている。こころが澄みわたるような旋律だ。
長い廊下に置かれた行灯に、ぽつり、ぽつりと明かりがともる。
並んで歩きながら、良美はふと思った。
久しぶりに、本当に久しぶりに、夫と腕を組んで歩いてみようかな、と。

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稲葉なおと

稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。建築の企画・設計を手がけつつ紀行作家としてデビュー。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。日本建築学会文化賞受賞。作家デビュー20周年記念小説『ホシノカケラ』(講談社)がロングセラーに。日本の美しいホテル38軒の知られざる物語『夢のホテルのつくりかた』を今秋刊行(エクスナレッジ社)予定。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩いた体験を元に長編小説、旅行記、写真集、児童文学を発表し続けている。

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