心動かす時を共にSEIKOHEART BEATMagazine

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作 稲葉なおと
画 坂内 拓

杖のひと

久しぶりの休暇だった。そして、本当に久しぶりのひとり旅だった。
コンサートツアーが始まると、それは確かに「旅」なのだが、スタッフと一緒の移動であり、時間はすべて管理されてしまう。
打ち合せ、リハーサル、合間に打ち合せを兼ねた食事、そしてまたリハーサル。そして本番の後は、シャワーを浴びて次のコンサートの地へと移動する。
こうして自由気ままにひとりで旅が出来るのは、姉のお陰と感謝すべきなのかもしれない。
羽根村智美(はねむら・ともみ)は、何度もそんなことを思った。
今朝もまだ陽が出る前に、ふと眼が覚めてしまった。ツアー中なら、体力を温存するために無理矢理もう一度寝るところだ。
でも、そうはまったく考えなかった。ベッドから降り、窓の前に立つ。
月明かりと仄かな照明に浮かび上がる景色。漆黒の空が、早朝ならではの蒼みを帯び始めたところだった。遠くの山のシルエットが刻一刻と鮮明になる。

窓から見下ろして、気がついた。
ホテルの広大な庭を、身軽に走る姿がある。七分袖のTシャツに膝丈のパンツ。上下とも黒。ラフな服装はスタッフではないようだ。
長い杖を手に持ち、野生動物のように木々を抜け、大きな池に置かれた石の上を跳ねる。そして時折ホテルを振り返り、杖を顔の前に立てる。
魔法でも掛けているのかな。笑みを浮かべた途端に強張った。
慌ててレースのカーテンを引く。長い杖の先に小さなカメラが見えたからだ。
写真を撮っているのだ。もしかして、マスコミ関係者……?
追い回される覚えはなかった。けれども首筋はぞくりと冷たくなっていた。

朝のレストラン 画像

「ここ、いいですか?」
ホテルのレストランで朝食の席に着き、注文を終えたところで声を掛けられた。
男は4人掛けテーブル正面の椅子の背を手にしている。
満席ではない。そもそも、顔見知りでもないのに……。
眉根を寄せたところで気がついた。
杖のひと──。
早朝と同じ服装。そして杖と石鹸くらいの大きさのカメラを隠しもせずに手にしている。
断わるべきか……いや、相手の素性を問いただすのにかえって好都合だ。
「どうぞ」余裕を込めて答える。
男は頬に薄い皺(しわ)を寄せた。ガッシリした体格だ。何歳くらいだろう。40代半ばの自分よりは多少年下だろうか。  
男は杖とカメラを隣の椅子に立て掛け、腰を下ろした。
「あの、羽根村智美さん、ですよね?」
いきなりの問い掛け。真正面から顔を見つめられる。
やはり、早朝の撮影は私が目的──。
こころの片隅で、メイクは大丈夫だろうかと思いつつ、小さく顎を引いた。

「やっぱりそうですよね。羽根村さんのバイオリン、僕は高校時代から大好きで、いやぁ、ここでお会い出来るなんて、感激です」
男の台詞がちくりと智美の胸を刺した。
高校生の時から?
相手はまったく気づいていない様子なので、自信のある笑顔で返す。
「それは、ありがとうございます」
「昨年のツアーも伺わせていただきました。すごくかっこよくて、照明も良かったですけど、あの照明と、背景で揺れる紗幕(しゃまく)の動きと羽根村さんの奏でるメロディがもう、キレッキレで」
「ありがとうございます」
もう一度返しながら、男に対して興味が湧くのを感じる。単なる隠し撮りカメラマンではないようだ。
曲を知っていて、ツアーにも来ている。しかも、その感想。舞台に使う薄い布地の幕のことを、『紗幕』という専門用語でさらりと語る。何者だろう……。
智美の胸の疑問が聞こえたかのように男は、あ、すみません、といってパンツのポケットに手をやる。
「僕はこういう者です」
銀の金属製の名刺入れから一枚取り出す。
その肩書きに眼が引き寄せられた。

舞台建築家

「舞台……建築家……」
智美の呟きに男は、はい、と笑顔で返した。
「ロックコンサートとか、イベントのステージ専門の建築家です。いわば、一瞬の時をデザインする仕事ですね」
彼は、ちょっとキザですけど、と付け加えてはにかんだ。
そんな職業があること、聞いたことはあったが、当人に会うのは初めてだ。
智美が毎年開催するコンサートにも大勢のスタッフが係わっている。だがそこに彼のような専門家は居ない。智美が自分の考える舞台のイメージを、スタッフの取りまとめ役である舞台監督に伝え、すり合わせをしながら決めていた。
彼は慣れた感じでウェイターを呼び、ガス入りのミネラルウォーターを注文してから、グラスはふたつ、とつけ足した。
智美は身体を少し固くした。
「写真も、撮られるんですね」
智美が杖に眼をやると彼は、あぁ、これですね、と答える。
「ホテルを撮るのが趣味で。というか、ホテルから舞台建築のひらめきをもらっているんです」
へぇ、と胸の内でうなずく。
「羽根村さんも、同じではないですか?」
「同じ?」
「こうして、ウェイターそれぞれの個性ある足音や、ゲストの小声の会話、食器同士が触れ合う音。この場で生まれるすべての音が、バイオリンの音色に語りかけてくるというか、旋律へのひらめきに繋がるように感じたりしませんか?」
彼の言葉にこころが吸い寄せられるように、耳を澄ましてしまう。
周りの音……旋律へのひらめき……すべての音が、愛おしく思えてくる……。
「失礼します」
ウェイターの声に眼を開く。
彼がボトルを手にしたウェイターに、こちらにもお注ぎして、と指示する。
智美は首をニワトリのように前に伸ばしてから内心、ちょっと悔やんだ。もう少し可愛らしく首を傾ければ良かった。

「このホテル、最高ですよね」
漠然とした問い掛けだが、智美はすぐさま、そうですね、と賛成した。
「ここの客室は本当に風通しがよくて、気持ちがいいですよね。建具がすべて壁の中に収納出来て、まったく存在しなくなるようになる仕掛けは、昭和の名建築、吉田五十八(よしだ・いそや)とか、吉村順三(よしむら・じゅんぞう)の住宅を思わせますよね」
建築家という肩書きらしい熱のこもった解説に智美はうなずきながら、頭にふと浮かぶものがあった。チェックインの際、客室まで案内してくれたスタッフが部屋の説明を終えてから、ひとつだけ質問した。
昼間のお部屋の環境はどういたしましょうか。窓を閉めきってお好みの室温に合わせてエアコンを作動させるのと、池側も森側も窓を開け放って風通しをよくさせるのと──。
あの問いかけに、このホテルの魅力は集約されていたのかもしれない。
「明け方、ご覧になりましたか?」
彼の唐突な問いかけ。首をかしげながら、何をですか? と訊ねる。
「このホテル建築を、です。明け方、ご覧になってないですか?」
今度は首を縦に振った。
「だったらぜひ明日は、日の出のちょっと前にプールサイドに、どうですか?」
警戒心が再び頭をもたげた。
それはもしかして、明日の朝を一緒に過ごそうという遠回しのお誘いだろうか……。

光の劇場

3カ月前。
大切なひとが突然亡くなった。前触れもなく、脳溢血(のういっけつ)で倒れたのだ。
最近はたまにメールを交換したり、互いのSNSを確認するだけで、会うことはまったくなかっただけに、悔やんでも悔やみ切れなかった。
四十九日も終えたところで、事務所の社長と相談をして、短い休暇をとってこのホテルに来ていた。
景色が最高のこのホテルを教えてくれた姪は、深い悲しみを誤魔化すように笑いを交えていった。
「あのホテルにトモちゃんがひとりで泊まったら、ナンパされちゃうかも?」
そのときは智美も苦笑いで受け流したが、姪の言葉が俄(にわか)に現実味を帯びてきたような気がした。

「建築はね、日の出前の20分間がもっとも美しく映えるんですよ。せっかくここまで来られて、その美しい世界を観ないで帰るなんて、もったいないですよ」
彼の言葉に熱がこもる。
どう応えようか……。迷っていると、朝食が運ばれてきた。
ひとり分だ。そういえば、彼はガス入りウォーターしか注文をしていなかった。
ウェイターが腰をかがめ、彼の耳に顔を寄せる。
「空港へのお車、30分後に手配済みです」
聞こえた言葉に、思わず彼の顔を見る。
いつの間にか亡くなったひとのことなど頭の隅に追いやり、このあとの展開を勝手に妄想していた自分に内心苦笑する。
彼が30分後にホテルから居なくなると知ると、名残惜しさが胸に広がった。
「慌ただしくて、すみません」
彼が智美に笑みを向ける。
「あの、朝食は?」
「軽く部屋で済ませました。もうちょっとお話、伺いたかったんですけど、午後に実は東京で会議があるもので、これで失礼致します」
智美の気持ちなど知る由もない彼は、杖とカメラを手に立ち上がる。
腰を浮かせようとする智美に、あ、どうぞそのまま、と彼は手で制した。
「肝心なことを言い忘れるところでした」
今度は巧く首を傾けることができた。
「ワインレッドのそのサマードレス、凄く素敵です」
頭の中が一瞬、真っ白になる。
「じゃ、良い旅を」
彼は笑顔で言い残してレジに歩いていく。
その背がレジの向こうに見えなくなってから気がついた。
智美の伝票もテーブルの上からなくなっていた。

早朝のプール 画像

翌朝。
4時に起きるとプールまで歩いた。
誰ひとり居なかった。けれども、庭もプールサイドも華麗にライトアップされている。
周囲には静かに弦楽が流れていて、水面に浮かぶ無数の金色の粒が、そのメロディーに合わせてゆらめいている。
この曲、誰かのオリジナルだろうか……?
初めて聴く旋律に、思わず自分も弾いてみたくなる。
光の劇場にたったひとり招待されたような気がした。声もなく見入っていると、やがて主役の登場を待っていたかのように、周囲の照明がいっせいに消えた。
5時5分。
開演直前のコンサートホールのようだ。遠い山の頂に、眼を射るような光が顔を出す。
大自然のスポットライト。
たったひとり雄大なステージに立ちながら、身体も心も、眼の前の情景へと吸いこまれていく。
こころが優しくなるストリングスの調べに、智美は陽に向かって自然と手のひらを合わせていた。

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稲葉なおと

稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。建築の企画・設計を手がけつつ紀行作家としてデビュー。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。日本建築学会文化賞受賞。作家デビュー20周年記念小説『ホシノカケラ』(講談社)がロングセラーに。日本の美しいホテル38軒の知られざる物語『夢のホテルのつくりかた』を今秋刊行(エクスナレッジ社)予定。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩いた体験を元に長編小説、旅行記、写真集、児童文学を発表し続けている。

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