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作 稲葉なおと
画 坂内 拓

それは娘からの誘いから始まった。行き先は聞いたこともない海。父と娘はそれぞれの思いを抱えながら、過ぎた「時」を見つめ、海という抗えない自然を前に、ゆっくりともつれた糸をほどいていく。
母とバイオリニストの叔母、そして、時をデザインする舞台建築家。すべてがつながったとき、ふたりは特別な「時」を手に入れる。
目を閉じれば感じるバイオリンの旋律、海の音、風、におい──全5話のストーリーを、美しい描写で紡ぐのは、作家で建築家の稲葉なおと。
今回のHEART BEAT MAGAZINEでは、大切な人に思いを馳せる豊かな「時」を過ごして欲しい。そんな気持ちを込めて、「時」と「音楽」がテーマの素敵な物語をお届けします。さあ、心の旅に出かけましょう。


思いがけない提案

注文確定ボタンを押し終えたら、画面に向けて太い吐息がもれた。
新刊小説のネット予約注文をようやく終えたのだ。初めての経験だった。「数量」のボタンは迷いながら何度も修正。結局「12」冊も買ってしまった。
箱詰めの書籍が家に届くや宮島健夫(みやじま・たけお)は、睡眠時間を削って2日間で読み終えた。

苦悩を抱える著名なバイオリニストと、そのステージを支える男たちの葛藤が、やがて胸が熱くなる物語へと収束する。
読み進むうちに、不覚にも何度も込み上げてくるものがあり、その度に付せんを貼りながら眼もとに手をやってしまった。

娘の応募した原稿が、何とかいう文学の新人賞を受賞し、その受賞記念に出版された本だった。
初の著書。
娘からも贈られてきた1冊は、棚の上に大切に飾っている。
「読んでくれた?」
「忙しくて読む暇などあるか」
電話で何度か問われ、同じ台詞を返していたら、思いもしなかった提案を持ちかけられた。
初めての印税で、6月10日に一緒に旅行に行こうというのだ。

「そんなハシタ金、あてにできるか」
健夫は即座に断わったのだが、その日にという提案に、娘の気持ちが痛いほど伝わってきた。
「いいじゃない。海で気持ちよく泳げるところに行こうよ。パパのお腹、少しは引っ込めないとヤバいし」
余計なひと言に健夫はムッとしつつ「オキナワか?」と返すと、娘は聞いたことのない地名を口にした。
いったいどこにあるのか、地図も頭に浮かばない。そもそも「島」なのか「諸島」なのかもわからなかった。
訊くのも悔しいので、とりあえず自己主張する。

「海のリゾートといえば、オキナワだろ。ママと昔、行ったときの海のきれいさは半端じゃなかったぞ」
いつの間にか、一緒に旅行することが前提の会話になっているのに気がつくが、どうにも後戻りが出来ない。
「海のきれいさなら、私が行きたいところも負けていませんけど」
「そもそもお前の名前はだな」
「はいはい。オキナワの海をママとふたりで見たときに、もしも将来、女の子が生まれたら、みんなで一緒に7つの海を旅しようねぇ〜、って話して付けたんでしょ」
「そうだよ」
「小学校以来、もう100回くらい聞きました」
「だいたい7つの海って、何通りもあるの、知ってるのか?」
「現代と大航海時代、中世ヨーロッパと中世アラビアで、海が違うっていうんでしょ」
「そ、そうだよ」
「それも95回くらい聞いたけど」
健夫は鼻から勢い良く息を吐く。
「とにかく、私がパパを案内したいんだから。ね、決まり」
娘は自分の推す場所にこだわった。
「そんな、聞いたこともない場所に行って、何が面白いんだ」
「どんな場所か知らないから面白いんじゃない」
口ではいつも歯が立たない。おまけに後になって娘が正しかったと知ることがほとんどだから余計に癪(しゃく)にさわる。

実際、宿にたどり着く前に “知らないから面白い”ことを健夫は実感することになった。
着いた空港から最寄りの港に出て、そこからスピードボートで目的地に向かったのだが、この旅程が、まったく予想外のこころ浮き立つ体験となった。
ボートは風を切り、波を切り裂くようにして、何度も激しくジャンプした。そのたびに、一緒に乗ったアメリカ人らしき人たちからは歓声が上がり、拍手が沸き起こる。いつしか船内は指笛まで反響して、もう大騒ぎだ。
健夫のこころも盛り上がり、娘が隣で苦笑していなかったら、一緒になって両手を振り上げ叫んでいただろう。
「どうでしたか?」
船着き場に降り立ったところで、娘が意地の悪い笑いを浮かべながら健夫の顔を覗き込む。
「どうって、何が」
「楽しかったでしょ?」
「危なっかしいだけだな」
「素直じゃないなぁ」
娘は下唇を突き出した。

駅のホームでヴァイオリンケースを片手に歩く親子 イラスト

思い出のバイオリン

迎えのマイクロバスが横付けしたホテルは、白塗りの、どことなくエーゲ海の島にあるような外観の建物だった。
宿泊手続きをすませ、スタッフの案内で部屋に向かった。
木製の背の高い扉を開け、歩みを進めた娘が声を上げた。
壁一面の大きな窓。
その向こうに海と空。真っ青な景色が広がっていた。
美しい景色に健夫のこころも呑み込まれる。顎(あご)が少しずつ下がっていくようだ。
娘がぬっと顔を伸ばした。
「どうですか?」
さっきと同じ笑いを浮かべた顔。
「ん? 何が?」口もとを引き締めながら答える。
「お気に入りのオキナワと比較して、いかがですか?」
「ま、似たようなもんだな」
娘が口を手の平で押さえて、くっくっくっ、と笑った。
「でもさぁ……」娘が真顔に戻って感慨深げに言う。
「考えてみたら、叔母さんのお陰だよね」
「叔母さんの? ここは叔母さんに教えてもらったのか?」
家内の妹はバイオリニストとして世間に知られた存在だ。建設会社のサラリーマンの健夫にすれば、自由気ままな生活を送っているように見える。
「そういえば……」
娘がふと思い出したように口にする。
「東京で空港に向かってる途中に、見なかった?」
「見なかったって、何をだ」
「リムジンバスが信号待ちしていたときに、あ、って声が出そうになったら、色んなことを思い出しちゃって」
「だから、何を見たんだ」
娘の話はよく遠回りをする。そのたびに健夫はじれったくなりながら、こういう話し方はママそっくりだな、と思う。
「バイオリンを持ったパパと小さな女の子が歩道を歩いてたでしょう」
眉間に皺(しわ)を寄せてしまう。
「ふたりがお揃いの深いブルーのケースで、パパさんが持っているのより、女の子の持っていたバイオリンが、すっごく小さくて、子ども用の分数バイオリンだったから、思わず、あ、ってなっちゃって」
娘は眼を細める。
「あれって、16分の1かなぁ、10分の1くらいだったかなぁ」
娘は子ども用バイオリンのサイズを口にする。
「そうか、パパ、見なかったんだ」
娘はどこか残念そうに言った。
健夫は否定も肯定もしなかった。

見たよ──。
その台詞が素直に口から出てこなかったのは、眼にした親子の様子が健夫の眼には、あまりにも仲むつまじく映ったからだ。
娘には幼いころ、バイオリンを習わせた。
健夫自身が子どものころに習っていたことから、娘にもぜひ、と思い立ったのがきっかけだった。
毎日の練習、そして毎週のレッスンを嫌がる娘に、健夫は無理矢理通わせていたという記憶がある。
思えば、娘が健夫と腕を組んでくれなくなったのは、バイオリンを無理強いするようになってからかもしれない。
不意にそんなことまで思ってしまったのだ。

幼稚園のときの娘は、一緒に出掛けると、手をつなぐよりも腕を組むことを好んだ。
まだ健夫の腰くらいまでしか身長がないのに、
「パパ、手」
そう言って、健夫の腕を下から持ち上げ、腰に当てさせる。
父親の腕の輪っかに、娘は自分の手をからめて歩くのが好きだった。
けれども一度、嫌がる娘の手を引くようにしてレッスンの教室に送ってから、普段のお出かけでも、娘は、
「パパ、手」と言ってくれなくなった。
そんな記憶の数々が不意に、そして鮮明によみがってしまったのだ。
「それで、なんで叔母さんのお陰なんだ」
健夫は話題を本筋に戻す。
「あ、そうそう。だって、あの小説が書けたのは叔母さんが現場を取材をさせてくれたお陰だし」
「そうなのか?」
「コンサートをつくり上げていく現場の取材なんて、普通は許可してくれないし」
「そう、なのか?」
小説はまだ読んでいないことになっているので、とぼけ方にも慎重になる。
「その物語がめでたく賞を頂きましたお陰で、我が父上をこうして御招待出来ているわけですから」
いかにもわざとらしく敬語を使う娘の顔を、溜め息とともにちらりと見る。
健夫はふと、娘との思い出が、初めて腕に抱いた日からの数々の出来事が、胸いっぱいによみがえるのを感じていた。

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稲葉なおと

稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。建築の企画・設計を手がけつつ紀行作家としてデビュー。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。日本建築学会文化賞受賞。作家デビュー20周年記念小説『ホシノカケラ』(講談社)がロングセラーに。日本の美しいホテル38軒の知られざる物語『夢のホテルのつくりかた』を今秋刊行(エクスナレッジ社)予定。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩いた体験を元に長編小説、旅行記、写真集、児童文学を発表し続けている。

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