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サックス奏者・渡辺貞夫、ジャズと共に歩んできた70年を振り返る

Interview

サックス奏者・渡辺貞夫、ジャズと共に歩んできた70年を振り返る

世界的な評価を集めている日本のサックス奏者、渡辺貞夫さんに音楽生活の出発点から現在に至るまでの話を聞いた。

2月1日に87歳の誕生日を迎えた渡辺貞夫。言うまでもなく、世界的な評価を集めている日本のサックス奏者だ。栃木県の宇都宮で生まれ、高校卒業後の51年に上京。銀座のクラブなどで演奏活動を始め、53年に秋吉敏子率いるコージー・カルテットに加入。秋吉が渡米した56年からは彼女のカルテットを引き継ぎ、58年の解散後はジョージ川口のビッグ・フォアに加入。61年に初リーダー・アルバム『SADAO WATANABE』を発表し、翌年からアメリカ・ボストンのバークリー音楽院(現・バークリー音楽大学)に留学。65年に帰国してからは、現在に至るまで若手をメンバーに加えるなどしてジャズの発展に寄与し、常に最前線に位置してきた。その裏に不断の努力があったことは想像に難くない。

渡辺貞夫が音楽に出会ったきっかけ

1933年生まれの渡辺にとって、音楽との出会いはどのようなものだったのだろう?

「親父が琵琶師だったこともあって、家の中で、お正月に親父が都都逸*(どどいつ)を唸ったりとか、そういう音楽環境ではありました。」

叔母のところで歌謡曲を聴いたり、近所のひとが弾くギターやヴァイオリンの音に耳を傾けたり、小学校では唱歌の時間が好きだったという渡辺。その彼に音楽の道を歩ませるきっかけが、戦後すぐに上映されたアメリカ映画『ブルースの誕生』だ。
※都都逸(どどいつ):江戸末期に一世を風靡した寄席芸人の都々逸坊 扇歌(どどいつぼう せんか)が大成した七・七・七・五調の俗曲。

「アメリカの文化政策だと思いますけど、戦後に音楽映画がいっぱい来たんです。終戦のときに、宇都宮の国道を、戦車を先頭に、アメリカのGI(軍隊)が隊列を整えて入ってきた。それが、ぼくの見た初めての外人。恐怖心はなかったですね。あまりにかっこいいんで、あっけにとられて。それに加えて、チョコレートやチューイング・ガムをもらって、一気にアメリカというか西欧文化に憧れました。進駐軍放送では毎日のように明るい音楽が流れてくるし。」

映画『ブルースの誕生』の中で、少年がクラリネットを吹くシーンに渡辺少年は思いを膨らませる。

「親父に迫りましてね。で、クラリネットを買ってもらったのが15、6歳の頃です。ベニー・グッドマンなどに憧れて、そこから始まりました。たまたま宇都宮のオリオン通りの小さな楽器屋さんに、中古のクラリネットが一本だけぽつんとあったんです。あれ、ぼくの人生にとっては象徴的でしたね。他に楽器なんか置いてないのに、それだけあったんです。」

出会いとは不思議なものだ。映画を観なければ、そして楽器店にクラリネットが置いてなければ、渡辺の人生はまったく違うものになっていただろう。

渡辺貞夫の人生の転機

「3ヶ月ぐらいしたら、宇都宮のダンスホールで週末に演奏を始めていました。楽器がない時代ですから、とにかく楽器を持ってステージに上がっていればいい。見映えなんです。だけど、吹きたい。ラ・クンパルシータ*ぐらいの指使いは教わりましたから。でも、返ってきた言葉は、『あの坊やが吹くと踊りづらいからやめさせてくれ』(笑)。これがぼくの音楽生活の出発点。」
※ラ・クンパルシータ"":タンゴを代表する古典曲

その昔、無声映画でクラリネットを吹いていた近所のおじさんに基本を習い、あとは一心不乱。才能があったのだろう。高校を卒業する頃にはひと通りの演奏ができるようになっていた。つてを頼り、東京に出たのが卒業して2週間後のことだ。

「この時点では、音楽でやっていけるとは思っていませんでした。音楽の素養がなにもないんだから。ただ好きで、憧れて。何曲かちょっと吹けるぐらいで東京に出てきたわけだし。親父には、『20歳までは好きなことをさせてくれ』と言っていた。ところが19歳のときに秋吉敏子さんに声をかけられたんです。秋吉さんはぼくらの憧れのピアニストですから。彼女に声をかけられたら、『これは音楽で飯を食っていけるんじゃないかな?』と思いますよね。でも、これがなくても、音楽が好きでしたから、帰らなかったと思います。食べていけなくてもやっていたと思います。」

今も昔も大切なのは「自分の音楽を探す」こと

秋吉のバンドに入って、渡辺はさまざまなことで刺激を受ける。中でも影響されたのが練習量の多さだ。だからこそ、後進へのアドバイスには説得力がある。

「とにかくわき目も振らずにやってほしい。今の時代は、テレビやインターネットとか色々なものから音は流れてくるし、音楽情報が多すぎる。だから、自分のやりたい音楽がわからなくなってしまう。音楽が好きなことはわかるけど、自分の一番やりたい世界がわからない。そういう意味では、ぼくらの時代よりも難しくなっている。でも、何か目標を決めて、自分が好きな世界をみつけて練習する。やっぱり、とにかくがむしゃらに、自分の求める欲しい音を追いかけるしかないでしょうね。

ただ、今の音楽世界でそれだけをやっていたら飯は食えないです。どのミュージシャンもみんな、あれもやる、これもやるで、それなりのことに対応しないといけない。ぼくらは一つのものを追いかけていけばよかったけれど、今は音楽の選択肢が多いので、その中から自分が本当にやりたい音楽を見つけてほしいです。

音楽をやろうとしたら、まずは楽器を覚えないといけない。自分の好きな楽器を選んだら、徹底的にマスターする。ぼくの時代は、アメリカに行くまでサキソフォンの先生がいなかった。それを考えれば、今は恵まれています。

そして大事なのは、楽器の音を、どれだけ自分が納得するように出しているかってことです。楽器吹けます、演奏できます程度の音じゃ、誰も納得してくれません。自分の楽器をまずはひとに聴いてもらえるような音にして、自分の納得する音にする。自分の音に自信がなかったら、他のことにも自信が持てませんからね。

練習も、ぽつんぽつんとやるんじゃダメなんです。毎日継続的に、時間を決めて、8時間やると決めたら8時間やる。それを毎日やらないとだめです。ぼくなんか、先生もなしで今日まできているわけで。自分なりに工夫して、自分の音を探して。」

アメリカのミュージシャンへの憧れ

若さと情熱——当時を知るひとが見れば、目の前にいる渡辺の音楽に対する姿勢はまったく変わっていないのではないだろうか? 洒落たファッション・センスも、昔からファンに影響を与えてきた。そちらの面でも、演奏同様、筋金入りだ。

「ぼくらミュージシャンはアメリカのミュージシャンに本当に憧れたんですよ。当時はとにかくかっこよくいたい、着るものぐらいは真似をしたい、と思っていて。『エボニー』という雑誌があって、それに黒人のミュージシャンの写真が載っていて、当時、大きな襟のシャツを着ていた。これがかっこいいから、帝国ホテルのそばのガード下のYシャツ屋さんに『これと同じシャツを作ってくれ。』って駆け込んだりしました。

当時、ステージに上がるときはバンド全員でユニフォームを着たわけです。ユニフォーム屋のおやじさんがいて、月賦で作ってくれるんです。この裏(銀座・和光)をちょっと行ったところにユマニテという洋服屋さんがあって、そこで作ってもらっていた。先つぼまりのズボンで、ジャケットはだぼだぼ。肩をちょっと上げると、うしろにシワができる。そこらへんまで注文してね(笑)。

靴は、やはりブーツがかっこいい。でも、ブーツなんて売ってない。銀座に夜店があって、そこで米軍の放出品で黒のかっこいい靴を買ったりしました。ブーツは見つかりませんでしたけど、仲間のミュージシャン達は皆、とにかくいつもキメてましたね。」

留学経験が渡辺貞夫のジャズに与えた影響

秋吉敏子の推薦もあって、フルスカラシップをもらいバークリー音楽院に留学したのが62年のこと。それまで、ビバップ(1940年代に始まったモダン・ジャズのスタイル)一辺倒だった渡辺だが、このときからジャズに対する視野が広がる。

「秋吉さんのバンドにいたときのジャズの主流はビバップ。その後、アメリカに行けたわけで。65年に、ゲイリー・マクファーランドのバンドで西海岸に10週間のツアーに出たんです。そのときに、初めてボサノヴァなるものを知ったわけです。サンフランシスコで、自分たちの出ているクラブの向いの店にセルジオ・メンデスのグループがブラジル65という名で出ていた。休憩時間にお互いに行ったり来たりして本場のブラジリアン・ミュージックを聴いたら、これもいいなと思うようになりました。」

アメリカに行って得た一番大きなものはなんだったのだろう?

「試行錯誤でやってきたことが理論的に間違っていなかった。それがわかったことです。バークリーのレッスンが、ぼくの目を開いてくれたというか、音楽の世界が見えてきた。ゲイリーとも出会って、ビバップ以外の音楽の素晴らしさを知ったことも大きい。

チャーリー・マリアーノ(当時の秋吉敏子の夫)と一緒にレコード屋に行くと、ジャズではない、ビートルズだとか、ロックのレコードを買っていました。あの頃はロックが全盛ですから。これも聴かなきゃいけないのかと思いましたけど、その頃はまだ抵抗がありました。否応なしに、時代的にロックの影響を受ける時代でもあったわけです。

一方、ジャズは自分の音を求めて、模索の時代。フリー・ジャズに行くのか、けっこう難しい世界に入りつつありましたよね。そこにロックのリズムが登場して。時代的にも、世界中の音楽が影響し合って、アフリカのリズムとかも聴こえるようになってきた。

ジャズのリズムって、高級なリズムと言ったらいいのか、リズミックに色々みんなチャレンジしていましたけど、そこにロックやサンバのリズムなど、シンプルなものが入ってきたんです。そういうシンプルなリズムに単純に浸る楽しさみたいなものを、みんな感じてきたわけです。ぼくも含めて。

ぼくはラッキーなことに、アフリカに行っちゃった。そうすると、音楽というより、アフリカの自然と、ひとびとの生きている世界というか、彼らがシンプルに生活している姿にも影響を受けました。だから、ロックやアフリカのリズムにも自然に影響を受けました。」

ビバップからスタートした渡辺は、60年代前半の留学を経て、ジャズにこだわらない音楽性を打ち出すようになった。70年代にはフュージョン・シーンを牽引し、世界の音楽シーンに進出。そのポジションを現在まで守り、いまだ世界各地で活動を繰り広げている。

渡辺の音楽、そしてステージには楽しさと心地よさが溢れている。それは、若い日から現在に至るまでの豊富な練習量と、音楽に対するオープンな気持ちによるものだ。そして、いまも少年の純粋さを忘れていない。ひとにも恵まれていたとは思うが、こうしたものから育んできた音楽は彼の人生そのものだ。

魅力的な人生——それが渡辺の音楽からは聴こえてくる。それは、演奏しているときの笑顔を見ればわかる。だから、年を重ねるにつれてますますその音楽と演奏が人々の心を捉えて離さないのだろう。

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