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文・写真 稲葉なおと(一級建築士・紀行作家)

服部金太郎の長男であり、服部時計店2代目社長となる服部玄三によれば、ネオルネサンス様式の採用は元々、建築家・高橋貞太郎が提案したものだった。高橋が金太郎に進言した、というのだ。

高橋は渡辺よりも5歳下で、30代後半。東大の後輩だったが、当時既に、学士会館、前田侯爵邸洋館を完成させ、昭和5年(1930)には日本生命館(後の日本橋高島屋)の設計競技にも当選。上高地ホテル、川奈ホテルや帝国ホテルの新館も手がけ、やがてホテル建築家として名を成すことになる。

高橋は、服部時計店ビル竣工の翌年に完成する服部金太郎の自邸の設計を手がけることから、金太郎とは既に厚い信頼関係が生まれていたのだろう。

和光の時計塔 写真
建築スタイルは格式と威厳を感じさせるネオルネサンス様式。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

一方で、渡辺仁建築工務所で設計を担当した渡辺光雄もまた、ネオルネサンス様式が採用された経緯について回想している。
渡辺仁建築工務所から施主側に幾つかの設計案を提案したものの、どれも通らなかった。
そんな中、ネオルネサンス様式は、服部時計店の現場の打ち合わせ主任であった図案部部長・八木豊次郎が中心となって提案され、それをもとに設計図を完成した、というのだ。
渡辺光雄の記述には高橋の名は登場しない。
服部玄三と渡辺光雄、ふたりの回想は相異なるようだが、真相はつまり、こういうことだったのだろう。
高橋貞太郎の進言を受けた服部金太郎が、服部時計店の現場主任・八木にその旨を伝え、指示を受けた八木が渡辺仁の事務所へ、施主の希望として今回新築する建築はネオルネサンス様式でと提案し、採用された。

和光本館 外観 写真
1・2階の下層部、3〜6階の主要部、7階の最上部の3層で構成されている。各層は軒庇(のきひさし)で仕切られた様式になっている。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

建築の外装の要所や、当時のエレベーターのガラス扉に生かされた唐草模様についても、渡辺光雄が興味深い逸話を残している。
ここでもアイディアを出したのは、建築家側ではなく施主側だったというのだ。
発案者は、金太郎の次男で、やがて兄・玄三のあとを継ぎ、3代目社長となる服部正次。
正次が渡仏した際に眼にしたネオルネサンス様式の建築に感銘を受け、似たような唐草模様の装飾で彩られたガラスの庇(ひさし)を服部時計店ビルにも採用出来ないかと提案した。

アラベスク(唐草)の装飾 写真
建物の窓部分には、ブロンズでアラベスク(唐草)の繊細な透かし模様の装飾などがあしらわれており、手の込んだ細工に驚かされる。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

だが敷地一杯に建つ建物に庇を出せる余地はなく、その案を生かすことが出来なかった。そこで庇に変わる装飾の場として、渡辺光雄が壁面の随所に唐草模様のデザインを施したのだ。
曽禰と中條からバトンを引き継いだ渡辺、さらに高橋という建築家たちの手と才を経た新しい建築は、服部金太郎とその家族の発案が大きな機動力となりながら、設計の基本方針が決められていったのである。

和光の時計塔 写真
時計塔の4角には古典的なギリシャ風の柱を設え、時計をモダンなブロンズのフレームに取り付け、石造りのアーチの中にはめ込み、建物の持つ様式と時計塔を巧みに融合させた。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

昭和5年(1930)5月、本体建築の設計図書、完成。
大林組との激烈な競争入札の末に、施工者としての札を勝ち取ったのは清水組(後の清水建設)だった。
同年6月11日、着工。
工事は進み始めたものの、設計者、そして施工者にはまだ大きな難題が待ち構えていた。
設計担当者・渡辺光雄を悩ませたのは、頂部にそびえ立つ時計塔の設計。
着工しても尚、そのデザインは決まっていなかったのだ。

和光の時計塔 写真
時計塔は高さ9.1m、文字盤の直径2.4m。4面全てに文字盤があり、ほぼ正確に東西南北を向いている。

写真 和光(昭和7年)

当初より「世界に二つとない時計塔としたい」という服部金太郎の意向を受け、世界中の時計塔の資料を入手し提案したものの、これといった案がまだ通っていなかった。
その過程において、服部金太郎より更に指摘がなされた。
「時計塔の位置を当初の設計図のものより、もっと前に出したほうが全体の収まりがよいのではないか」
渡辺光雄はこの指摘を受け、何案もの図面を描き、何度も模型を作りつづけた。
だがどれも施主が納得できるだけの案には至らなかった。作っては差し戻されの繰り返しにより、ついに「ノイローゼ状態にまで陥ってしまった」と渡辺自身が書き残している。

和光の時計塔 写真
和光の時計塔は軒庇(のきひさし)の真ん中を一段上げ、人々の視線が向くよう工夫がされている。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

寝るときには必ずスケッチブックを枕もとに置き、まさに24時間体制で案を練る日が続いた。
そんなある日のことだ。寝床の中でふと思いついたアイディアがあった。
ふとんから跳ね起き、図面にした。翌朝一番に事務所に駆け込み、模型を作る。
すぐさま施主側に連絡を入れ、提案したところ、ようやく服部金太郎を満足させることが出来たのだ。
このとき既に、着工して約1年が経過していた。

和光本館 写真
苦労の末に誕生した銀座のランドマーク、和光本館。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

東大建築学科を卒業し、清水組入社わずか2年目で服部時計店ビル工事現場を担当したのは吉川清一。いずれ社長へ、さらに会長へと昇り詰める吉川の回想によると、施工会社としての難題は、地下1階を売場とした計画にあったという。

自ずと機械室は更にその下、地下2階に配置する計画となったのだが、実は地下2階の建物は当時、東京では初の試みだった。硬い地盤を掘削しての基礎工事は難航を極めていたところに、更に服部金太郎から新たな指示が下りた。
「敷地境界線に沿って打ち込む板状の杭・矢板は、地下2階よりもさらにもう1段深くまで打ち込むように」
吉川が「難工事の極め付け」と表現しているような要請だったが、後日、吉川自身がその要請の先見の明にこころを打たれることになる。

服部金太郎の要請は、将来の地下鉄工事によって建物の周囲の地下が深く掘り下げられることを予見し、その工事が建物へと影響しないようにという配慮から出たものだったのだ。
事実、その後銀座の街並みに地下鉄工事、そして地下街工事が施されるも、服部時計店ビルには何も影響が出ることはなかった。施主のトップの要請によって進められた基礎工事が、いかに万全であったかが証明されたのだ。

銀座風景 写真

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

銀座のシンボルとしてひとびとに親しまれ、愛されつづける名建築の生い立ちには、服部金太郎を中心とした施主と、設計者、施工者が三位一体となり、それぞれの意見とアイディアを持ち寄り、妥協せずに実現へと尽力した物語があった。
そしてその物語は、建設当時の関係者への敬意を伴いながら、現代の関係者へと受け継がれている。

和光の時計塔 イメージ
昭和29年(1954) 6月10日「時の記念日」からは、ウエストミンスター式のチャイムの音が響くようになった。
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稲葉なおと

文・写真
稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。短編旅行記集『まだ見ぬホテルへ』で作家デビュー。デビュー20周年の長編小説を講談社より刊行予定。グランドプリンスホテル新高輪「うずしお」にて竣工以来初となる写真展を開催するなど写真家としても活躍。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩きながら旅行記、写真集、長編小説、児童文学を次々と発表し続けている。

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