心動かす時を共にSEIKOHEART BEATMagazine

Last update:/

  • facebook
  • twitter
  • hatebu
  • poket
  • instagram

文・写真 稲葉なおと(一級建築士・紀行作家)

昭和7年(1932)6月10日。
昭和から平成の時代を通じて、多くのひとびとの記憶に残る名建築が銀座4丁目に誕生した。
服部時計店ビル。現在の和光本館である。

和光本館 写真
人の流れをスムーズにするだけではなく、道ゆく人が銀座を楽しめるよう緩やかにアールを描いて建物ができている。

写真 和光(左:昭和7年)、稲葉なおと(右:平成30年撮影)

建築界において評価が高くても、いつの間にか姿を消してしまう名建築は数多い。
名の知られた博物館や美術館、公共の建築物でさえも、老朽化が進むと建て替え、もしくは大幅な改修工事によって、元の名建築としての見どころがほとんど失われ、建築そのものが一新されてしまうケースが珍しくない。

和光本館 店内 写真

写真 和光(上:昭和7年)、稲葉なおと(下:平成30年撮影)

ましてやそれが、時代の先取りが求められる商業建築であれば、更に高い危機に瀕しているといえるだろう。
築90年を迎えようとする商業建築・服部時計店ビル(現・和光本館)もまた、平成20年(2008)に大規模な改修工事を実施した。
1月13日より11月21日まで約300日間、閉館。耐震補強、補修、整備、外壁洗浄、修復、店内の一部にバリアフリー化の工事を施したのだ。
注目すべきは工事の基本方針である。
ひと言でいえばそれは、元の名建築への敬意を随所に感じさせる改修工事だった。

和光本館改修工事の竣工図 写真
和光本館改修工事の竣工図。

写真 稲葉なおと

中心となった清水建設・坂井和秀が、改修工事の方針について書き残している。
「オリジナルが保持されている部分は保全しながらその精神性を大切にし、建築全体としては骨格(外装と構造体)のもつ潜在的な力を読み解き、あるいは引き出し、現代のテクノロジーを組み入れて価値を高め、永続的なものとして再構築するということである」

和光本館 外観 写真

写真 和光(昭和7年)

復元されたモールディング彫刻 写真
平成20年の改修工事の際に復元されたモールディング彫刻。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

誰が設計したのかも忘れられてしまうのが常の商業建築において、服部時計店ビルがなぜ、元の名建築への敬意を忘れることなく、現代の最先端技術が加味された建築として改修されたのだろうか。
建設当時について調べていくと、施主側も、建築家側も、施工側も、決して妥協することなく、世界で唯一の建築を創り上げることに尽力した姿が浮き彫りになってくる。
それは建築家の独断でも、施主の独断でもなく、関係者がアイディアを出し合いつつ、より良き建築を求めて尽力した物語だった。
建物全体を覆う建築様式にも、銀座のシンボルともいえる時計塔にも、そして眼には見えない地下工事においても、伝説となった経緯(いきさつ)が残されている。

和光 西階段の踊り場 写真
2階へ続く西階段の踊り場の明かり取りの窓にはブロンズの装飾をはめ込み、優美かつモダンな雰囲気を加えており当時と変わらない柔らかな光が差し込んでいる。

写真 和光(上:昭和7年)、稲葉なおと(下:平成30年撮影)

服部時計店ビルの成り立ちには、工部大学校造家学科や東京帝国大学建築学科(ともに現在の東京大学建築学科)を卒業し、やがて建築史に名を刻むようになる4人の錚々(そうそう)たる建築家の面々がかかわっていた。

◎曽禰達蔵 嘉永5年(1853)〜昭和12年(1937)
◎中條精一郎 慶応4年(1868)〜昭和11年(1936)
◎渡辺仁 明治20年(1887)〜昭和48年(1973)
◎高橋貞太郎 明治25年(1892)〜昭和45年(1970)

銀座4丁目に服部時計店ビル新築の計画が持ち上がった当初、設計を担当したのは、日本人建築家第1期生のひとり曽禰達蔵と、ケンブリッジ大学にも留学経験のある中條精一郎による共同事務所・曽禰中條建築事務所だった。

重要文化財にも指定された慶應義塾大学図書館や、小笠原伯爵邸、明治屋ビル、講談社ビルなどの代表作がある建築事務所によって設計は進められ、大正10年(1921)に工事は着工。
地下1階部分の掘削も終わり、鉄骨地上7階建ての鉄骨の一部分も既に現場に持ち込んでいた。
だがその現場が同12年(1923)9月1日、関東大震災に見舞われてしまう。
既存工事の全ては烏有(うゆう)に帰(き)し、計画は中止。
その後、敷地の一部が晴海通りの道路拡張によって削られ、計画は一から立て直しとなった。

6つの装飾レリーフ 写真
1階と2階の間の壁には6つの装飾レリーフが施されている。左上から貴金属を示すカップ、開店当時の服部時計店の紋章、商業の神にまつわる紋章、左下から服部時計店の紋章、砂時計、転鏡儀。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

あらたに設計を引き継ぎ、昭和4年(1929)の年末よりその作業を進めたのは、渡辺仁建築工務所。
曽禰よりも30歳以上も若く、まだ40歳を超えたばかりの渡辺仁は、横浜を代表するホテル、ホテルニューグランドを既に完成させ、後に第一生命館や原邦造邸(現・原美術館)などを手がけることになる当時注目の建築家のひとり。
だが白羽の矢が渡辺に当てられたのは、初代社長・服部金太郎(1860〜1934)の親しい友人の息子の親友という繋がりからだった。
著名な建築家が指名され、その設計作業が再び開始されれば、主要なデザインは建築家にすべてお任せという施主が今も昔も多いだろう。
だが、服部時計店ビルにおいては、そうはならなかった。
ビルを特徴づける3つの要素、建物全体を覆うネオルネサンス様式、唐草模様の装飾、そして頂部の時計塔の設計は、渡辺仁の独断ではなく、施主・服部金太郎とその家族の意向が深く係わっていたのである。

和光本館 写真
時代を超えて銀座を見守り続けてきた和光本館。

写真 稲葉なおと(平成30年撮影)

  • facebook
  • twitter
  • hatebu
  • poket
  • instagram
稲葉なおと

文・写真
稲葉なおと紀行作家・一級建築士

東京工業大学建築学科卒。短編旅行記集『まだ見ぬホテルへ』で作家デビュー。デビュー20周年の長編小説を講談社より刊行予定。グランドプリンスホテル新高輪「うずしお」にて竣工以来初となる写真展を開催するなど写真家としても活躍。JTB紀行文学大賞奨励賞受賞。世界の名建築宿に500軒以上泊まり歩きながら旅行記、写真集、長編小説、児童文学を次々と発表し続けている。

前の記事

次の記事

合わせて読みたい関連記事

PAGE TOP
本サイトでは、クッキーを利用しています。
詳細は、右記をご覧ください。プライバシーポリシー